第一章 第四話

次の日の朝、わたしは起き上がることができなかった。体が重い。それは、鉛のような重さではなくて、魂が体から切り離され、ただの抜け殻になってしまったような、虚無の重さだった。

昨日、優子の家で見たものは、ただのいじめではなかったと思う。それは、わたしの存在の、最も深い部分への侵略だった。母のヒステリーを嘲笑され、家庭内の恥部をクラスメイトの前で晒される屈辱は、筆箱を隠された時の比ではない。

「……気持ちが悪い。頭が痛い」

わたしは、布団の中で小さな声で呻いた。仮病だとわかっている。けれど、本当に行くのは、もっと嫌だった。優子たちの、あの残酷な笑顔を、もう一度見る勇気なんて、どこにもない。

母が、わたしの部屋に入ってきた。

「亜矢ちゃん。朝ごはんだよ。早く起きて」

「ママ……わたし、今日、休みたい。ちょっと熱があるみたい」

そう言うと、母は無言でわたしの額に手を当てた。その冷たい手が、いつもよりも優しく感じられた。一瞬、母がわたしを心配してくれるのではないかという、一縷の期待が胸に芽生えた。

しかし、その期待はすぐに、ガラスのように砕け散る。

「熱なんかないよ!嘘つかないで。まさか、また学校で何かあったの?ねえ、あのガキどもに、また何か言われたわけ?」

母の声は、わたしを心配しているのではない。「自分の娘が、また負けたのか」という怒りがにじみでている。母にとって、学校を休むことは、優子たちに屈服したことを意味する。そして、それは母自身の敗北なのだ。

「いい?亜矢ちゃん。あの子たちは、亜矢ちゃんが少しでも弱いところを見せると、つけ上がるの。亜矢ちゃんが行きたくないと思っていることを知ったら、もっといじめてくるんだよ。行きたくなくても堂々として!何もなかったように振る舞うの!」

母は、わたしに「戦うこと」を強要した。しかし、それはわたしのための戦いではない。母のプライドのための、一方的な命令だった。昨日の屈辱を、わたしは母に話すことなどできなかった。あの映像の件を話せば、母はまたヒステリーを起こし、学校に乗り込み、いじめをさらにエスカレートさせるだけだ。

わたしは、諦めて布団から出ていた。冷たい床に足をつけると、わたしの魂が再びからだに戻ってくるような、べつの重い感覚が戻ってくる。


※※※


学校での一日が、どれほど辛かったか、言葉にするのも億劫だった。優子たちは、昨日、わたしに何をプレゼントしたかを知っているという、「共犯者」のような目を向けながら、わたしに話しかけてきた。

「亜矢ちゃん、昨日のケーキ、美味しかった?」

「ママの怒鳴り声、もう一度聞きたいなー」

わたしが何も言い返せないことを知っているから、彼女たちは臆することなく、わたしをいたぶった。わたしは、壁のように、空気のように、存在を消すことだけに集中する。時間が、水のように流れ去るのを待った。

そんな時に限って色んなことが起こって、時間は引き伸ばされる。

放課後。解放された瞬間、わたしは一目散に教室を飛び出した。早くこの、悪意に満ちた空間から離れたかった。

校門を出て、雨が降りそうな、灰色に曇った空を見上げた時、突然、胃の底から冷たいものが込み上げてくる。

宿題。

わたしは、今日の朝、無理やり登校させられたことで絶望していて、帰る時間になってもそれは消えない。


提出期限が明日に迫った算数のドリルを、学校の机の引き出しに入れっぱなしにしてきてしまったのだ。

「教頭先生に、『また忘れ物をしたのか!』って怒鳴られる……!」

母に怒られることよりも、教頭先生のあの冷たい、わたしを否定するような怒鳴り声が、今は怖かった。母が学校に乗り込んで以来、教頭先生はわたしのことを問題児として監視している。もし宿題を忘れたと知られたら、明日また応接室に呼び出され、「いじめられる側にも問題がある」と、ねじ曲がった正論で責められるに違いない。

わたしは、雨粒が落ちてきそうな重たい空の下を、学校に向かって引き返した。足が、鉛のように重い。

昇降口から教室棟に入ると、誰もいない校舎は、ひっそりと静まり返っていた。静寂は、いつもわたしを包み込む音だが、いまの静寂は、いつもより何かが潜んでいるような、招待のわからない不吉な予感に満ちている。

息を潜めて教室に入り、自分の机の引き出しを探った。

ない。

次に、先生の机の上を探す。

ない。

「まただ……」

絶望が、冷たい水のようにわたしを包んだ。わかっている。優子たちが、わたしが慌てて宿題を取りに戻るだろうと予測し、また隠したのだ。昨日の「ヒステリー観察日記」に続く、新たな報復の始まりだ。

わたしは、泣き出しそうになるのを必死でこらえ、校舎を探し回った。体育館、音楽室、理科室……どこにもない。

そして、古い棟の二階にある、図書室にたどり着く。

図書室は、いつも鍵がかかっているのに、今日に限って、ドアが僅かに開いていた。わたしは、恐る恐る中に入る。

夕日で薄暗くなった広い部屋。本の匂い。その一番奥の、窓際のテーブルに、それはあった。

わたしの算数ドリル。

表紙には、わたしが書いた、小さなネコのイラストが描かれている。間違いない。

「あった……!」

隠された悲しみと、見つかった安堵が、一気に押し寄せてきた。優子たちの悪意に打ちのめされそうになりながらも、なんとか宿題を取り返せた。これで、教頭先生に怒鳴られることは避けられる。

わたしは、ドリルを胸に抱きしめ、すぐに図書室を出ようと、ドアに向かって歩き出した。


その時。


ガチャッ。

背後で、冷たい金属が擦れる音がした。

わたしは、恐怖で体が硬直するのをかんじる。心臓が、耳の奥で激しく脈打つ。

振り返ることもできず、わたしは急いで図書室のドアノブを掴んで回した。

開かない。

「う、嘘……」

ドアノブを何度も回す。強く引く。けれど扉は、微動だにしなかった。

「開けて!開けてよ!」

わたしは、パニックに陥り、ドアを叩いた。

その瞬間、引き金を引いたように部屋の外から、くすくすという笑い声が聞こえる。

それは、優子の声だった。美香のものも混じっているようだ。

「……誰?優子ちゃん?美香ちゃん?開けてよ!」

わたしは、絶望的な気持ちで叫んだ。

優子の声が、ドアの向こうから、明るく、楽しそうに響いてきた。

「あーあ、見つかっちゃった。亜矢ちゃん、なんでこんなところにいるの?お家に帰ればよかったのにぃ」

「開けてよ!お願い!閉じ込めるなんて、ひどいよ!」

涙が溢れてきた。昨日、ビデオで嘲笑された屈辱。教頭先生に責められた恐怖。そして、母に愛されない悲しみ。全てが、この暗い図書室に閉じ込められた瞬間に、弾け飛んだ。

「ひどい?うーん、そうかなぁ。私たち、亜矢ちゃんが一番落ち着く場所に、置いてあげただけだよ?」

優子は、そう言って、また笑った。その笑い声は、悪意に満ちている。

わたしは、ドアを、拳で何度も叩きつけた。

「開けて!開けてよおおおおお!」

わたしの悲鳴だけが、静まり返った校舎に、虚しく響き渡る。優子たちの笑い声は、もう聞こえない。彼女たちは、わたしを泥沼に突き落とすことに成功し、満足して去っていったのだ。

わたしは、ドリルを抱きしめたまま、図書室の冷たい床に崩れ落ちた。周りには、何千冊もの本がある。知識の宝庫であるはずなのに、今のわたしには、冷たい壁と、閉じ込められた牢獄にしか感じられなかった。

外は、すでに夜の帳が降り始めていた。

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