第一章

第一章 第一話

わたしの体は鉛のように重いのに、心臓だけは鼓動を早めて、胸の檻を突き破ろうとしている。倒れた椅子、優子の無表情な嘲笑、美香の甲高い笑い声。教室の冷たい空気の中で、わたしは自分が世界から切り離された、価値のない透明な存在になったように感じていた。

家に帰りたい。家に帰れば、この地獄から少しは逃れられる。そう信じて、わたしは学校から飛び出すように走った。

息が荒くても、追いかけられている気がして、火がついたように走る。先生や優子や美香がおってくる気がする。

走って、走って、学校から少し離れた時、わたしは逃げたことが無意味だったと悟った。家にも、母という名の、別の種類の恐怖が待ち構えている。

リビングのドアの前で、わたしはもう一度立ち尽くした。バッグの中には、筆箱がないという真実と、算数のテストが迫っているという現実がある。テストで筆箱がなかったら、先生に借りないといけない。それをいじめっ子に見られたら、わたしを莫迦にする口実が増えてしまう。どう言い繕うか、どんな嘘をつくか、頭の中で何百回もシミュレーションを繰り返した。しかし、どんな嘘も、母の鋭い視線とヒステリックな問い詰めの前では、砂上の楼閣だ。崩れるに決まっている。

「亜矢ちゃん!ただいまくらい言いなさい!」

ドアを開けたまま考え込んでいると、母の声が、扉の向こうから突き刺さった。わたしは、何も言わずに自分の部屋に逃げこむ。早く、この重たい現実から目を背けたかった。

自分の部屋の隅っこに座り込み、膝を抱える。一人でいるのは嫌いだ。本当は居間にいたい。ここにいたら、孤独を感じてとても嫌なのに、わたしはうっかり逃げ込んでしまった。

けれど、それでも、出ていって母に自分から怒鳴られに行くのもできない。

目を閉じて、このまま明日が来なければいいのに、と強く願った。

どれくらいそうしていたのだろうか。外はもう、夕暮れの薄紫とオレンジが混ざり合った不安な色に染まっていた。

不意に、わたしは窓の外が気になった。なぜかわからないが胸騒ぎがする。

窓に近づき、そっとカーテンの隙間から外を覗いた。

人が行き交う住宅街。普段と変わらない風景。

そのはずだ。

けれど、わたしの家の玄関先に、人影があった。

心臓が、一瞬、止まった。夕焼けの色が、その人影の輪郭をぼんやりと赤く照らしている。最初、父が早く帰ってきたのかと思った。しかし、その立ち姿は父ではない。細身で、なんだか妙にひょろりと長い。

その人影が、慣れた様子でうちの玄関のポストに近づいてゆく。そして、カバンの中から、何かを取り出した。

わたしは目を凝らし、息をするのも忘れていた。

夕暮れの光の中で、それはやけにはっきりと見える。

わたしの筆箱だ。

鮮やかな水色で、端にクマのお守りのキーホルダーがついた、新学期に母に買ってもらったばかりの、わたしの筆箱だった。優子たちが隠した筆箱だ。

その人影は、迷うことなくポストの投入口を開け、乱暴に筆箱を押し込んだ。ガチャリ、と、郵便物ではない、少し重たいものがポストの底に落ちる音が、この距離でも聞こえた気がする。

そして、その人物が顔を上げた。

優子だった。

優子は、いつも学校で見せる無表情な顔ではなく、どこか満足げで、歪んだ笑みを浮かべている。それは、「してやったぞ」という悪意と、「お前はどこまでいってもわたしの手の中だ」という支配欲に満ちた、最悪の笑顔だと、遠いのにはっきりと写った。

わたしは、恐怖と、怒りと、屈辱と、そして何よりも「なんで、うちまで」という、安全地帯を汚されたことへの絶望で、喉の奥から押し殺したような声を上げた。

「ひやあっ!」

それは、叫びというよりも、張り詰めた糸が切れるような、乾いた音なのかもしれない。

その瞬間、優子の目が、わたしの部屋の窓、カーテンの隙間、そしてわたし自身を、真っ直ぐに捉えた。

優子の顔から、一瞬にして笑みが消えた。そして、その代わりに、獲物を追い詰める獣の目がそこに現れる。

気付かれた。

わたしが、優子のしたことを目撃したことが、見られてしまった。

わたしは、反射的にカーテンを閉めようと手を伸ばす。

けれど、もう遅かった。

優子は、走って玄関先に駆け寄ると、インターフォンに手をかけた。


ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!


断続的に鳴り響く、けたたましい電子音。それは、この静かな住宅街では異常なほどの騒音だ。母に気づかれる。母が、インターフォン越しに優子の声を聞いたら。そして、優子が学校でのいじめを、悪意を持って歪曲して伝えたら─。

わたしの心臓が、喉元まで飛び出しそうになる。インターフォンの音が鳴り響くたびに、体が激しく震える。

わたしは、頭を抱えた。


どうしよう、どうしよう。

母に見つかったら。


優子は、インターフォンを押し続けるだけでなく、今度は玄関の扉を乱暴に叩き始めた。


ドン!ドン!ドン!


この家を、わたしの世界を、内側から破壊しようとするような暴力的な音。


「亜矢ちゃーん!出なよ!どうしたの!筆箱、見つかったんでしょ?優しく返してあげたのに、お礼くらい言いなよ!」

優子の声は、インターフォンのスピーカー越しに、ねじれて、狂気じみた響きになって家の中に響き渡る。


「亜矢!開けろよ!見ているのはわかってるんだから!ママに全部話してあげるよ!亜矢ちゃんが嘘つきなこと!」


嘘つき。

その言葉が、わたしの心をいちばん深くえぐった。わたしが必死に守ろうとしていた「嘘」を、優子は軽々と突き破り、母というわたしの一番弱い場所に直接触れてきたのだ。


ピンポーン!ドン!ドン!ドン!


そして母が、リビングから出てくる足音が聞こえた。

「ちょっと!誰よ!こんなにしつこく……!」

母の声が、玄関に向かう。わたしは、もうダメだと思った。全てが終わる。この家も、わたしの僅かな平和も、母の信頼も、全てが優子の手によって、ガラスの破片のように粉々に砕け散る。

わたしは、衝動的に窓に駆け寄った。

「やめて!優子!やめてよ!」

大声を出した。優子に聞こえるように、必死に。

優子は、わたしの声を聞いた瞬間、インターフォンから手を離した。そして、顔を上げ、わたしの窓を睨みつける。

優子の唇が、ゆっくりと動いた。声は聞こえなかったけれど、その唇の動きで、わたしには優子が何を言ったのかが、はっきりとわかった。

「次は、もっと面白いことしてあげるね」

その言葉を最後に、優子は走って去っていった。インターフォンが鳴り止んだ静寂の中で、わたしの体は、恐怖で震え続けることしかできない。

母が、玄関のドアを開ける音がした。

「もう!誰だったの!まったく、失礼な……」

母が、ポストに気づく。そして、わたしの水色の筆箱を取り出した。

母が、筆箱を手に持ち、階段を上がってくる。わたしの部屋のドアの前で、母は立ち止まった。

ガチャリ。

ドアノブが回る音。わたしは、息を殺した。

「亜矢ちゃん。これ、どういうこと?」

母の声は、雷雨の前の、不気味なほどの静けさを纏っていた。

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