プロローグ 第四話
体が、鉛のように重い。もう辛くて、心は悲鳴をあげている。しかしそれを母に言えば、わたしは弱いと言われて、怒られるだけだ。
もう辛い。学校から帰ってきて、自分の部屋のドアを閉めても、重さは消えない。消えないのは、リビングで、母の冷たい独り言を聞いてしまったからだろうか。
どうしてわたしは、父の文句を聞かなくては行けないのだろう。この家に生まれてから、今の現実は決まっていたのだろうか。
けれど、別の家に行くかと聞かれたら嫌だ。わたしが母と父を好きなのは、執着なのだろうか。
扉の前に立ち尽くして、何分か経っていた。
握った手には汗が滲み、足はガクガクとする。時間がやけに遅く感じた。
「あいつは本当に気の利かない!最低だ。電気代の請求書だって、どうしてわたしが全部確認しなきゃいけないわけ?」
父への不満。不平。
母は、わたしをサンドバッグののように使う。わたしは、ただそこに座って、母の吐き出す毒を受け止め続けるしかできない。父も母も、わたしにとっては大切な、世界の全てなのに、それを言ったら怒られる。わたしはどうしても、笑顔で「そうだね」と言えない。
母は、わたしが同意しないと夜まで文句を言う。だからわたしは、「そうだね」と笑って言った方がいいのに、わたしはそんなに器用にできない。父が可哀想になるし、わたしはどうしても同意できない。
どちらが悪い、いいのかよく分からない。
わたしの意見が固まったら、少しは楽なのだろうか。
どちらも好きで、わたしの意見が何だか自分でも分からない。
弱いというわたしのコンプレックスに母に触れられそうで、吊り橋を歩くように感じる。
わたしは、父も好きだ。面白くて、優しくて、わたしが散らかしても「まいったな」と苦笑いするだけで、怒鳴ったりしない。その優しさを母に否定されるたびに、わたしの心臓はぎゅっと締め付けられる。
理不尽に怒られることには、いつまでも慣れられない。3年前くらいからこのような感じだったのに、慣れられずに嫌だと思うわたしはわがままなのだろうか。床にホコリが一粒落ちているだけで、母の機嫌は地雷を踏んだように爆発する。
「亜矢ちゃん!どうしていつもこうなの!少しは周りを見て行動してよ!」
母の声は、わたしが存在していることそのものを否定しているように響く。わたしが傷ついていることは確かなことだ。涙が出そうになるほど、心が痛い。
それなのに、わたしは母を嫌いになれない。
この矛盾が、わたしを毎日苦しめる。
もし、母が完全な「他人」と割り切れたなら、どんなに楽だろうか。
いじめられるのも辛くて、生きていることすら辛くなるけれど、母に否定されることと比べたら、母の方が辛い。
心の中で、母を遠い存在に設定できれば、母の言葉に期待しなくなる。期待しなければ、裏切られることもなくなる。傷つく回数は、きっと減るだろう。
「また理不尽なことを言っているな」と、天気予報でも聞くように無関心でいられたらどれだけ楽なのだろうか。
そう思っても、できない。
母は、わたしを生んだ人だ。血が繋がっていて、毎日同じ屋根の下で暮らしている唯一無二の存在なのだ。
時々、本当にたまに、母は驚くほど優しくなる。
「亜矢ちゃん、疲れてない?今日は早く寝ようね」と、頭を撫でてくれる時。
わたしが風邪を引いた時、夜中に額に冷たいタオルを乗せてくれた時。
その一瞬の優しさが、わたしの心の奥底に染み込んでゆく。砂漠に降る恵みの雨のように、乾燥しきったわたしの心を一気に潤す。
「やっぱり、わたしのママだ」
そのたびに、わたしは忘れてしまう。昨日の罵声も、父への愚痴も、全てをリセットして、新しく期待を抱いてしまうのだ。
「次こそは、ずっと優しいママでいてくれるかもしれない」
「わたしがもっと完璧になれば、ママはいつも笑ってくれるはずだ」
この期待こそが、わたしを一番傷つける原因だとわかっているのに。
わたしは、母の愛情を飢え求めている。食事が無ければ死んでしまうように、母からの肯定と愛が無ければ、わたしの存在が消えてしまう気がするのだ。
だから、傷つけられても、理不尽に責められても、母を嫌いになる選択肢を心が拒否してしまう。
母を愛することは、わたしにとって生きるための本能に近い。愛しているからこそ、母の言葉は深く突き刺さり、痛い。他人なら、無視できる言葉も、母のものだと全てを受け止めてしまう。
わたしは、母から離れられない。物理的にも精神的にも。
自分を責める。どうして、わたしはこんなダメな人間なのだろう。母に怒られるのは、きっとわたしがきちんとしていない証拠なのだと思ってしまう。
母を嫌いになれば、全部では無いけれど、一部は解決するはずだ。
わたしは毎日、母の顔色を伺い、母の些細な変化に一喜一憂する。
愛と憎しみ、期待と絶望。この全部が絡み合って、わたしの心を形作っている。
もっと、母に余裕があれば、と毎日願うのに、わたしの願いは叶わない。数日母が文句を言わずに期待しても、一週間も平和は持たない。わたしは、どうしたら強くなれるのだろうか。
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