第2話 修正の夜
雨音が窓を叩いていた。冷房の風が湿気を押し返し、紙の端がわずかに波打っている。夜十時。外の世界は止まっているのに、スタジオの中だけは動いていた。
日向結衣は進行表の隅に書かれた自分の名前を見つけ、手が止まる。〈原画修正:桐生零/担当補佐:日向〉。思わず目を疑った。補佐とはいえ、桐生の原画に触れる――それはこのスタジオの新人にとって、信じられない任務だった。
「お前の線、癖が少ない。だから試してみる」
桐生は短く言い、紙束を差し出した。
束の上には、走る少女の連続カット。風で髪が舞い、表情が変わる。けれど途中の一枚だけ、何かが“止まっていた”。
「ここ、笑ってるのに目が死んでる」
淡々と指差され、結衣はうなずいた。
彼の指先が、紙の上をなぞる。黒鉛の粉がすっと舞い、線が少しだけ変わる。ほんの数ミリ。それだけで頬の角度が柔らかくなり、少女が再び走り出した。魔法みたいだった。
「……どうやって、わかるんですか」
「線が止まると、呼吸も止まる」
またそれだ、と結衣は思う。桐生の言葉はどれも説明にならないのに、心だけは揺さぶられる。
渡された紙を前に、結衣は息を整えた。鉛筆を持つ手が震える。だが、彼の背中が視界の隅にあるだけで、少しだけ呼吸が合う気がした。鉛筆の芯が紙を走る。まぶたのライン、唇の端。息を吐くたび、線が生まれる。
「焦らなくていい。動きを感じて」
背後から桐生の声。低く、静かで、音よりも近い。
描き直した少女の笑みが、わずかに“生きた”。その瞬間、結衣の胸も同じ速さで跳ねた。
再生ボタンを押す。少女が風を切って駆け抜ける。雨粒が髪を叩く音と、机の上の心臓の鼓動が重なる。桐生が小さく頷いた。
「悪くない。お前の震え、やっと意味を持った」
意味。
たったその一言で、体の奥が熱を帯びた。外の雨音も、窓の曇りも、全部遠くなる。
その夜、結衣は初めて桐生のペースで働いた。彼の修正に合わせて線を繋げ、原画を重ね、トレス台の光に目を焼かれながら、二人の呼吸はゆっくり揃っていった。
休憩を取るタイミングも同じだった。
紙コップのコーヒーを手にした瞬間、桐生が小さく笑う。
「焦ってると線が固くなる。柔らかく、でも芯を持て」
「……人の性格みたいですね」
「線も人も似てるよ。どっちも、揺れてないと描けない」
その言葉を胸の奥で何度もなぞった。揺れているほうが、生きている。
今の自分の心こそ、まさにその“揺れ”だった。
夜が更けるほど、外の雨は弱まり、代わりにスタジオの照明がまぶしくなっていく。机の上の紙が何十枚も積み重なり、黒い線が雨粒のように光を反射した。
ふと、結衣は桐生の作業姿を盗み見た。前髪の隙間から覗く目は、まるで映写機の光みたいだった。過去を映すでも未来を描くでもなく、“今”だけを描いている。
「桐生さんって、どうしてアニメーターになったんですか」
気づけば口に出していた。
彼は少し間を置き、机に手を置いたまま答えた。
「動かないものが、動いたら嬉しい。それだけ」
あまりにも単純で、だからこそ胸に刺さった。
“嬉しい”という言葉が、こんなにも温かい音を持っていることを初めて知った。
夜が更け、雨が止むころ。桐生が片付けを終えて帰ろうとする。
「お疲れさまでした」と言おうとした声が出ない。
代わりに、紙の上の少女が笑っていた。
──あの笑顔が動いたのは、きっと私のせいだ。
描くたびに、鼓動が少しずつ彼に近づいていく。
1秒24コマの中に、恋が混ざり始めていた。
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