アニメーターの恋は1秒24コマで ― 線と心臓のリズム ―
桃神かぐら
第1話 線と鼓動
夜の作画室には、鉛筆の音と空調の低い唸りだけがあった。カリカリ、トントン。タップに通した動画用紙の角が、指の汗で少し柔らかくなる。消しゴムの粉、コーヒーの酸味、インク、紙。匂いだけが、起きている証拠みたいに濃い。
日向結衣は、入社三ヶ月の新人アニメーターだ。与えられるのは清書とチェック、動画の中割り。原画机の天板に走る細い傷をなぞりながら、いつか自分の線で時間を動かす日のことを考える。終電は過ぎ、夜食のカップ麺は冷え、タイムカードの印字だけが正直だ。午前二時二十三分。
壁際、黒いパーカーの男が一人、黙って紙に向かっている。桐生零。若さに似合わない集中の沈黙。鉛筆の角度が変わるたび、光の筋が指の節をすべった。彼の描く線は、柔らかくて迷いがないのに、かすかな震えを孕んでいる。その震えが画面に置かれた心臓の拍みたいで、結衣はいつも見とれてしまう。
「桐生さん、まだ帰らないんですか」
自分の声が、紙より薄く聞こえた。彼は顔を上げず、短く答える。
「締切。止めたら、動きも止まる」
説明になっていないのに、説明になっていた。結衣は笑って、すぐ真顔に戻る。線を引く。止める。また引く。動画用紙がかさかさ音を立て、芯が紙を噛む。緊張が肩に集まっていく。
「……線が震えてる」
いつの間にか背後に来ていた桐生が言う。驚いて手が跳ね、芯が折れた。カチ、と乾いた音が夜を刺す。
「す、すみません。手が……」
「緊張の線だ。悪くない」
それだけ残して、彼は自分の机に戻った。褒められたのか慰められたのか分からない言葉が、胸の奥で何度もリピートされる。悪くない。悪くない。悪くない。鼓動だけが、確かに速くなる。
夜が深くなるほど、作画室は浅くなる。天板のライトが紙を透かし、線は骨格だけの生き物になる。タイムシートに引かれた細い欄に、秒とコマが整列していて、結衣はそこに自分の呼吸を合わせた。二十四分の一秒を吸って、吐く。吸って、吐く。線の始点で吸い、終点で吐く。
壁の時計が三時を指すころ、桐生のモニターに置かれた一枚が、ふっと息をした。少女の顔。頬のわずかな膨らみ、上向きにほどける口角、まつげの影。たった一枚ではただの静止画だ。だが、隣のカットと繋いで再生すれば、そこに“笑い始め”が生まれる。
「見てみる?」
桐生が言う。結衣はうなずき、彼の隣に立った。指先がかすかに触れて、互いに引っ込める。その距離感もまた、秒とコマで測れそうだと思う。
再生。カチ、という無音の合図。少女が笑う。ほんの一秒。二十四枚。紙と鉛筆と汗と夜が、線になって動く。結衣の背中に鳥肌が立ち、視線が勝手に画面の曲線を追いかける。頬がほどけ、瞳が細くなり、まつげがわずかに震える。その震えと、自分の心臓の震えが重なった気がした。
「どうして、桐生さんの線は震えるんですか」
問いは、自分でも驚くほどまっすぐだった。彼は少し考えてから、鉛筆の腹で紙を撫でるように答える。
「止めたら嘘になるから。揺れているほうが、生きてる」
簡単で、逃げ場のない答え。結衣は息を飲む。自分の線が緊張で震えていたように、彼の線は生きようとして震えている。震えの質が違う――そこが、たまらなく遠くて、たまらなく近い。
気づけば、外の窓がうっすら明るい。始発前の薄青い空気が、スタジオに溜まった夜の匂いを薄めていく。結衣はペン立てを整え、削りかすを小さな山にまとめ、改めて紙に向かった。震えはまだある。けれど、さっきより呼吸が合っている。秒とコマと心臓が、同じ拍で進む。
桐生が再生ボタンを押した。画面の中で少女の笑いがもう一度立ち上がる。その瞬間、結衣の胸の内で“ドクン”と音が鳴った。隣で、同じタイミングで小さな息を吸う気配がした。
──恋の始まりは、きっとこの音だ。
1秒24コマの中で拾い上げられた、たったひとつの鼓動。
描くたび、心が跳ねる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます