第3話 静物① 木炭デッサンってどうするの?

美術予備校で、私が次に描いたのは――油絵ではなく、デッサンだった。


 初めての油絵ではうまくいかなかった。

 だが、デッサンなら独学で描いてきた経験がある。

 多少は自信がある。


 そう思って、夜間部のアトリエに一番乗りで入った私に、アンザイ先生が声をかけた。


「おー、早いねぇ。今日は木炭デッサンだよ」


 ――木炭デッサン?


 耳慣れない単語に、思わず口をついて出た。


「木炭デッサン、とは……? 鉛筆で描くのとは違うんですか?」


 戸惑う私に、アンザイ先生は今回描くことになるモチーフの準備をしながら話しかけてくださった。


「油絵科の子はね、鉛筆でのデッサンもするけど、表現力を身につけるために“木炭”を使うんだよ」


 先生は静物を机に置き、角度を確認しながら続けた。

 机の上に並べられたのは――牛の骨だった。


 白く乾いた骨が、蛍光灯の光を鈍く反射している。

 どこか生々しく、それでいて美しい。

 油絵の匂いがまだ残るアトリエに、石膏と木炭の粉の匂いが混ざっていく。


「今日はこれを描こう」


 アンザイ先生は骨を慎重に組み合わせ、影の落ち方を確かめながら角度を調整していた。

 骨の隙間にできる暗がりが、まるで静かな時間そのもののように見えた。


「購買にも売ってるから、あとで見に行ってみるといい。

 木炭にも濃い・薄い、太い・細い、いろんな種類がある。

 鉛筆と違うのはね――尖らせるのに紙ヤスリを使うこと。

 それも購買にあるから、店員さんに聞いてごらん」


 聞きながら、私は思った。

 鉛筆と似ているようで、まるで違う世界の道具なんだな――と。


 購買で木炭を探していた私は、棚にずらりと並ぶ黒い箱の多さに驚いた。

 細いもの、太いもの、硬そうなもの、柔らかそうなもの。

 まるで鉛筆とは別世界の道具たちだった。


「何かお探しですか?」


 購買の店員さんが声をかけてくれた。

 私は、木炭デッサンで使う木炭が必要だと伝える。


 店員さんはにこやかにうなずき、ひとつの箱を手に取って見せてくれた。


「木炭デッサンなら、こちらのヤナギ木炭が使いやすいですよ」


 箱の側面には「ヤナギ炭・中軸360」と書かれている。

 手に取ると、軽いのにずっしりとした存在感があった。


 私はその木炭のほかに、基本の木炭デッサンセットと専用の紙――木炭紙を数枚買うことにした。


 レジで値段を見て、思わず心の中でつぶやく。


 ――紙一枚で、こんなにするのか。


 今まで大きめのクロッキー帳に鉛筆で描いていた私には、すべてが懐疑的で、そして少しだけ“大人の世界”に感じられた。


 木炭デッサンに使う画材をそろえた私がアトリエに戻るころには、授業を終えた現役生たちの姿がちらほら見えた。


 皆、一様にこれから始まる静物課題に向けて場所取りをしている。


 美術系の高校や他の予備校では、描く場所があらかじめ割り振られていたり、くじ引きで決めたりするところもあるらしい。

 だが、この夜間部では――早い者勝ち。


 寛大なのか、それとも適当なのか。

 どちらとも言えないその“自由さ”が、なんとなくこの予備校らしい気がした。


 私は丸椅子を取り、今の自分でも描けそうな構図の位置にそっと置いた。

 この場所なら、目の前の静物もなんとか描けそうだ。


 そう思いながら、購買で買ってきた木炭を取り出し、“ただの木の枝”を“絵を描く道具”に変える準備を始めた。


 なんでも木炭というのは、中にある芯を細い針金で通して空洞化させないといけないらしい。

 そこからさらに、鉛筆をカッターナイフで削るように、空洞化させた木炭の先を紙ヤスリで尖らせていく。


 ――不器用な私には、なかなか慣れない作業だった。


 私が木炭の準備に勤しんでいる間に、アンザイ先生や他の講師陣もアトリエに到着し、今回の課題について説明を始めていた。


 目の前のことに集中しすぎて、人の話が耳に入ってこない――それは、良くないことだと分かってはいる。


「みんな、だいたい集まってきたねー!」


 オオワシ先生の明るい声が響く。


「もう一度説明するけど、今回の課題も先生たちは指導なしです!

 皆さんの“今の実力”を見たいと思っています!

 分からないことや注意事項は、壁に貼ってある用紙にまとめてあるから、その都度確認してみてください!


 ――それでは皆さん、もがいて、足掻いて、苦しんで、いい作品を作ってください!」


 その声は、顔を上げない生徒たちにも届き、否、教室の外まで響いていた。


 私はその声に――少しだけ救われた気がした。


 準備が終わったら、壁に貼られた紙を確認しよう。

 そう心の中で決めた。


 アトリエの空気が、次第に静まっていった。

 生徒たちはそれぞれ、目の前の課題に集中している。


 木炭紙に画材を叩きつけるような音だけが、リズムのように教室を支配していた。


 ――ザッ、ザッ、スッ。


 私はこの音が嫌いではなかった。

 淡々と描く。

 考えて描く。

 対象物を近くで見て、離れて見て、また描く。


 その音とリズムは、むしろ心地よい。

 アトリエが一つの“楽器”のように感じられた。


 ――その静かなリズムを、ふいに崩す者がいた。


 扉が開き、ひとりの生徒がイヤホンを耳につけたまま入ってきたのだ。


 イヤホンをつけて入ってきたその子は、以前、私と一緒に手を挙げたあの高校生だった。


 オオワシ先生が、彼に優しく声をかける。


「もう始まっているから、空いている場所を見つけて描き始めなさい。

 分からないことは、この用紙を見てね」


 そう言って、壁に貼られた今回の課題の説明を指差した。


「すいません、電車遅れて〜」


 その言葉を遮るように、オオワシ先生の声が飛ぶ。


「それなら、予備校に連絡しないとダメよ。

 モデルさんにお願いする人物デッサンのときなんかは、時間通りに来ないと入室禁止って場合もあるんだから。


 あと――イヤホンしてるのはいいけど、音が漏れないようにしなさいね。

 じゃないと、禁止にするから」


 ……いや、イヤホンはいいのか。

 私は心の中でツッコミを入れた。


 物言いたげなその少年は、不満げに眉をひそめながらも、

 それを飲み込んで空いているスペース――

 ちょうど静物を挟んで私の真正面に、丸椅子を置いた。


「ねぇ先生、木炭って初めてなんだけど、どうするの?」


 少年は近くにいたスギヤマ先生に声をかけた。

 その声には、素直さと少しの苛立ちが混じっている。


 私は木炭を指先で転がしながら、ついそのやりとりに耳を傾けてしまった。


 ここにいる優秀な現役生たちの中で、少し今風の“不良っぽい”その少年に、

 私は妙な親近感を覚えた。


 ――若いって、いいな。

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