第2話 自画像② 講評
キャンバスに、薄く溶いた油絵の具を乗せる。
紙製のパレットには、さまざまな色が並んでいる。
その中から私は茶色を選び、鏡に映る自分を大まかに描き始めた。
茶色を選んだ理由は単純だ。
「最初の色は明暗を決める下地として使うといい」と、
安西先生が教えてくださった通りにやってみただけ。
特に他意はない。
他の生徒たちも、それぞれのやり方で筆を進めていた。
同じように茶色で描く者、明るい色を使う者、
キャンバス一面を青一色で塗りつぶす者――様々だ。
だが、他人の絵に目を奪われるのは、後でいい。
私は、鏡の前の男に集中して筆を進めた。
⸻
描いているうちに、キャンバスに絵の具が思うように乗らなくなってきた。
髪の色、肌の色、ずれていく形。
それらを修正しようと、それぞれに合った色を重ねるが、
筆を動かすたびに、選んだ色はうまく定着せず、
ただ場面を崩していくばかりだった。
同じ絵の具でも、油絵の具というものは、水彩やアクリルガッシュとは違う。
乾くのが遅いぶん、塗り重ねには注意がいる。
修正したいときは、オイルを含ませた布で優しく拭き取るか、
ペインティングナイフと呼ばれる道具で絵の具をすくい取るか――
あるいは、さらに多くの絵の具で塗りつぶすしかない。
⸻
鏡の中の自分。
キャンバスに映る自分。
そして、それを描く自分。
同じ“私”であるはずなのに、
このアトリエという空間には、三人の自分がいる――。
そんな奇妙な現実を感じながら、
私は静かに絵を進めていった。
⸻
夕方。
アトリエの空気が静まり返ったころ、
「制作終了ー!」という大鷲先生の声が響いた。
壁一面に、自画像が並べられていく。
主題こそ“自画像”だが、その答えは実に様々だった。
鏡の自分を実直に描く者。
アニメイラストのように自分を描く者。
なるほど、そういう解釈もあるのかと、私は感心した。
その中で――ふと、目を奪われる一枚があった。
青空の中に浮かぶ、眼鏡をかけたおさげの少女。
レンズはモザイク状に描かれ、
その奥の瞳は、どこにも映っていない。
妙に印象に残る絵だった。
美術予備校に通う高校生というのは、
こんなにもレベルが高いのか――。
私はその事実を、肌で実感したのだった。
⸻
壁にかけられた作品を囲むように、生徒たちが丸椅子を持って集まった。
私もその中の一人だ。
作品の前には三人の講師が立っている。
安西先生、大鷲先生、そして黒縁の眼鏡をかけた若い男性――杉山先生。
杉山先生が口を開いた。
「今回描いてもらった“自画像”は、毎年この時期に出している最初の課題です。
自分を描くのは苦手だと感じる人も多いと思います。
僕もその一人です。だからこそ、今しか描けない感情で描いてほしい」
静かなアトリエの空気に、その言葉がゆっくりと染み込んでいった。
――今の絵は、今しか描けない。
私は壁に並んだ自分の絵を見つめながら、
その言葉をノートの片隅に書き留めた。
⸻
続いて、大鷲先生が口を開いた。
「今回描いた作品には、順位などはつけません。
また、クラス内でもそれぞれの絵を見て感じることは自由ですが、
この場で生徒同士が互いの作品を講評することは控えてください。
そしてもう一つ――
他の生徒の作品を、作者の許可なくスマートフォンで撮影することは禁止します」
その穏やかな口調には、優しさと同時に確かな芯があった。
アトリエの空気が、少しだけ引き締まる。
⸻
安西先生が、一人ひとりの作品の前に立ち、
生徒に問いかけていった。
「この絵を描く時は、どんな気持ちだった?」
「なぜ、自画像というテーマでイラスト風にしたの?」
作品ごとに異なる質問が飛び、
生徒たちはそれぞれの言葉で、自分の絵について語っていく。
やがて、あの“おさげの少女”の絵の前で、先生が足を止めた。
「眼鏡がモザイクになっているのは、どうして?」
生徒は少しだけ間を置いて、静かに答えた。
「私、自分の顔にコンプレックスがあるんです。
だから……自分の顔が嫌いで。
“他人から見える自分”という存在を、記号として描きたかったんです」
その言葉を聞きながら、
私は絵の中の少女を改めて見つめた。
青空の中に浮かぶ少女は、
決して“見た目が悪い”なんてことはない。
むしろ、目を引くほど整った顔立ちをしていた。
思えば――このアトリエで絵を描く生徒たちは皆、
知的で、どこか整った雰囲気をまとっている。
まるで、選び抜かれた存在たちの集まりのように見えた。
⸻
その後も、安西先生はいくつかの質問を続けていたが――
ただ茫然としていた私の耳には、もう入ってこなかった。
「おーい、次、君だよ」
その声に、私はハッとした。
講評は、いつの間にか自分の番になっていたのだ。
「君の絵はあれだね、単純に――下手だね」
忖度のない言葉に、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。
だが、先生は少し表情を和らげて言葉を続けた。
「でもね、他の先生も言っていたように、
この絵は“今の君にしか描けない絵”だよ。
捨てないで、大切にしなさい」
その言葉を――
励ましとして受け取るか、
それとも、土日の昼に放送している鑑定番組のような
“当たり障りのないコメント”と捉えるか。
少し迷ってから、私はその言葉を、
励ましとして受け取ることにした。
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