西日の差す喫茶店にて13-金木犀〈きんもくせい〉とお月さま-

蓮見庸

西日の差す喫茶店にて-金木犀〈きんもくせい〉とお月さま-

 金木犀キンモクセイの香りを感じると、もう秋なんだなと思う。

 街なかにいるとあまり感じないけれど、住宅街を歩いていたりすると、突然濃厚な香りに体がふわっと包まれることがある。

 すごくありきたりかもしれないけれど、わたしにとって金木犀の香りは、秋の訪れを感じさせてくれる象徴のようなものだ。


 どうしてそんなことを思ったかというと、ついさっきこの喫茶店へ向かう道すがら、どこかから金木犀の香りがするような気がしてあたりを見回すと、低いへいの向こうに植えられた人の背丈ほどの木の、その緑色の葉っぱの間からひとつひとつは小さいけれど鮮やかな橙色の花の連なりが見えて、やっぱりもう秋になったのだと感じたから。

 薄い長袖とカーディガンを羽織っているけれど、さすがにそろそろ衣替えをちゃんとしないと風邪をひいてしまいそうだと思って、手帳に衣替えと記した。

 わたしはゆったりと流れるピアノの曲を耳に、窓際の席で手帳をめくりながらコーヒーが来るのを待っていた。

 さっき、コーヒーを注文をする時にマスターと少しだけ話をしたが、姪御めいごさんは学校が急に忙しくなって、店にはあまり来られなくなってしまったということだった。マスターはいつもの笑顔を絶やさなかったが、やはりどこかさびしそうだった。


「お待たせいたしました。こちらご注文のブレンドコーヒーとサービスのクッキーです」

 いつものコーヒーとともに置かれた、白く飾りのない小皿には、500円玉ほどの大きさの丸いクッキーがふたつ載っていた。

「クッキーですか?」

「はい。中秋の名月にあやかって、お客さまにほっとひと息ついていただけたらと思ってお出ししているのですが、今年は曇って月も見えませんでしたし……あ、ひょっとしてお嫌いでしたか?」

「いえいえ、そんなことありません。お月見だからだったのですね。月のまあるい形をイメージしてるんですね」

「それもありますが、色も似ていますでしょ?……というのは出来上がったあとに思いついたことなのですが」

 マスターはいたずらっぽく笑って続けた。

「お月見といえばお団子かなと思ったのですが、お団子をお出しするのはちょっとたいへんそうでしたので、クッキーならと思いましてね」

 そう言われてクッキーを見ていると、黄色い色はまだ夏の名残りを感じさせる夜空に掛かる月のようで、表面のちいさなぷつぷつはクレーターのようだった。

「ほんとうに月に見えてきました。食べるのがもったいないくらいです。ありがとうございます」

「それはよかったです。ぜひお召し上がりください。ほんの気持ちですので。どうぞごゆっくり」

 マスターがゆっくりとカウンターに向かって歩いていくと、カランカランと扉が開き、明るい栗色をした長い髪の少女と、その手をつないだ母親が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 マスターはそのまま彼女たちを入口近くの席へ案内し、注文を取ってカウンターへと戻った。


 わたしはさっそくクッキーを指でつまみ、半分かじってみた。

 それは意外なほどさっくりと割れ、断面からは細かい粉がぽろぽろと崩れて落ちた。

 口の中の半分は、甘さが控えめのとても素朴な味だった。舌の表面を覆うようにまかれた粉は、さながら月の砂粒といったところだろうか。

 半月になったクッキーを小皿に戻して指についた粉を落とし、コーヒーをひと口。それは口の中に残っていた粉と甘さをさっぱりと洗い流してくれた。

 もう半分のクッキーを口に入れた。コーヒーを飲んで味覚が少し鋭くなったのか、先ほどよりも甘さを感じた。なんだか子供の頃に作って食べた、焼き方も味もひとつひとつばらばらだったクッキーを思い出した。


「ねえママ、これおつきさまだって」

 入口の方から少女の声が聞こえてきた。先ほど入ってきた親子だった。

「満月のお月さまね」

「まんげつ?」

「そう」

「まんげつってなに?」

「まあるいお月さまよ。見たことない?」

「うん」

「じゃあ、今度お外で見てみようね」

「うん」

 少女はクッキーを頬張ほおばり、うれしそうな顔をしていた。見ているだけでこちらも思わず笑みがこぼれそうだった。

「ねえママ、おつきさまにはウサギがいるってせんせいがいってた」

 少女は口の中にクッキーを入れたまま言った。

「そうね」

「ウサギってなに?」

「動物園でっこしたでしょ。耳が長くてふわふわしてるウサギさん。おぼえてる?」

「うん、ウサギさん」

「英語でなんて言うんだっけ?」

「えーとね……ラビット!」

「そう。よくできました」

 少女はまた満足そうな表情をして、クッキーをもうひとつ口に入れた。

 コーヒーを飲んでいた母親は、「これも食べる?」と言って少女にクッキーの入った小皿を渡そうとしたが、少女は「それはママのぶん」と言って、オレンジジュースのコップを両手で持った。

 ほほえましい気持ちでわたしも手元の小皿に残っているクッキーをつまみ、今度は丸ごと口の中へ放り込んだ。

 やさしい甘さが舌の上に広がり、しばらくそのままでいると、クッキーはほろほろと崩れていった。

 コーヒーをひと口飲むとクッキーの味が洗い流され、もうひと口飲むとコーヒーの芳醇ほうじゅんな香りが鼻から抜けていった。

 カップを置き、手帳を開いて何気なくカレンダーのページを開いてみた。

 すると、今日の日付の近くに寒露の文字があった。

 寒いなんていう感覚はまだまだ先のことだと思っていたけれど、金木犀も咲いていたし、季節は確実に進んでいるのだとあらためて思った。


「ママ、それたべないの?」

 少女はコップを置き、母親が手を付けずに置いてある小皿を指差していた。

「食べていいわよ」

 母親がそういうと、少女はクッキーをひとつつかみ頬張ほおばった。あいかわらずとても満足そうな表情をし、最後のひとつを指差して言った。

「ママもたべて」

 そう言われ今度は母親もクッキーを口に入れた。

「おいしい?」と少女が聞き、母親が「おいしいね」と返すと、少女はなんだか得意げだった。

「パパにもあげる?」

「そうね。でももう食べちゃったから、パパが帰ってきたら一緒に買いに行こうかしらね」

「うん!」

 少女はコップを両手で持ってこくこくとジュースを飲んだ。

 それから思い出したようにコップを置いて、

「パパいつかえってくるの?」

 と聞いた。

「そうね……もうちょっと涼しくなったらね。それまでちゃんとピアノの練習して待ってようね」

「うん。ねえ、パパどこにいったの?」

「お仕事よ」

「おしごと?」

「そう、お仕事。こないだ教えてあげたでしょ。カメラのお仕事で遠いところに行ってるのよ」

「ふーん」

「でもね、遠いところに行っても、パパも同じお月さまを見てるのよ」

「おつきさま?」

「そうよ。こないだもね、みんなたいへんな暮らしをしてるけど、きれいな月が見えるって言ってたのよ」

「わたしもおつきさまみる!」

「じゃあ、夜ご飯食べたら外に出て見てみようね」


 そういえば、月なんていつ見たっけ?

 わたしは目の端に映る少女の様子をぼんやりと眺めながら思い返してみた。

 あまり見た記憶がないのは、空が狭くなったせいかな。

 確かにそれもあるかもしれないけれど、見ようと思えば見られるはずだ。

 中秋の名月なんていうことも忘れていた。

 今度ちゃんと夜空を見上げてみよう。

 それから、うさぎも探してみよう。

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