夜のおしごと

晴れ時々雨

第1話

 随分と華奢な男だった。でもそれは見た目が、というだけで、触れてみるとしっかりと肉の詰まった体をしている。細く見えるのは長さがあるからだった。

 名前をJといい、歳は22だ。

 彼は舞踏家のような姿勢をし、均整のとれた体に柔らかく沿う黒のニットを着ていた。

 私たちはホテルの部屋へ着くと、ゆっくりと近づいてキスをした。出会った時の彼の少し緊張した佇まいを思い出す。密着に近い距離で唇を重ねながら、彼が私の腕に触れたので、私も服の上から彼の胸に触った。思った通り、細いけれど胸は立体的に膨らみを帯びている。擦りながら形を確かめる。胸、お腹、それから肩へ。繊細なニットの弾力も触り心地がいい。

 とても気に入った。彼の特に素敵なところは、首すじだ。しなやかな首すじ。ニットが低いハイネックなのが残念。

 つい興奮してしまって、キスに熱が入ったのがJにも伝わったらしく、彼が急に私を引き寄せた。私の頭一つ分くらい背の高い彼が私に口づけるということは、その長いうなじがしなる状態になる。私は、近づきすぎて自分では見えないその光景を想像した。

 Jは私より青みがかった肌の色をしていた。でも暖色の間接照明で照らされた彼の肌が乳白色になったのは、光の加減だけじゃないはず。

 唇から何かを奪うようにキスしながら、彼は腕の中に収めた私の後頭部を押さえる。私は彼の首に絡ませた手で髪を撫で、首すじに指を這わせた。親しいわけじゃないのに、とても長いキスだった。テクニック的に上手いというわけでもないけれど、彼は合わせた唇から何かを得ようとしているみたいだった。私が苦しみ始めるのを待っているのかもしれない。そう思うくらい唇を離さない。

 焦らすような浅い快感と酸欠にちょっと降参して、ようやく口を離す。Jがばさりと服を脱ぎ去り、私の服に手を掛けて躊躇した。女の服ってどうなってるか男の人にはわかりにくいのね。彼は欲望で見境いをなくすようなケダモノではないらしい。私は自分で服を脱いだ。肩紐で支える衣類だけになると、彼がその肩紐に手を入れて滑り落とした。自然と胸の前に手をやる。隠すつもりというよりは礼儀のようなもの。

 ここまでの全ての行程がどことなくぎこちないのは、今回のが、私に正視を求めるものなんだと思い出させた。

 Jは小さく辺りを見回し、ライトのスイッチを探した。そして照明の光度を最小限まで落とすと、全部の服を脱いだ。私は一番小さな衣類を身に着けただけの姿で、ベッドに腰掛けた。

 Jが私の前に来てベッドに片膝を乗せると静かに沈んだ。その動きを利用するように私の上へかぶさってくる。ああ、また、あのキスだ。そう脳裏を掠めて、はっとした。

 とてもスローだけれど、彼のペースをすっかり覚え込まされていることに感心した。

 Jはベッドのヘッドライトも消したので、私たちの今いるところは殆ど見えない。サイドのスタンドライトでちょうど彼が逆光になって、影のようになっている。私たちはベッドに横たわったまま絡み合って口づけをした。その心地良さは、予想していた快楽と質が違っていたが、なんだかきょうだいと深く抱き合うような安心感があった。これからセックスする人とするキスじゃない。これをやめたら、二度と得られない気がした。ついたり離れたりしつつ続けていると時間が経つうちに、唇の触れ合いがきょうだいから恋人へと変化していった。それが苦しいものに変わり、私の心は痺れに耐え切れず泣いた。彼が首にするキスが痛い。私が微かに声を上げると、すかさず唇を塞いでくる。それは一息に私の粘膜を食い破る。

 行為としてはまだキスだけだったけれど、私の快楽の蕾は開きかけていた。花弁は、ひらくときに音をたてる。猛禽類が大翼を広げるときの音に似た、空を柔く裂く潔い音をきいた。

 何が起こったか理解するまで少し時間がかかった。一時、気を失っていたようだ。覚醒すると自分の背が寝具にうずもれているのがわかった。体には何も身に着けていない。手の甲を額に当てひとつ息をつくと、視界の端に誰かが立っているのが薄ら見えた。J。

 部屋はもっと暗くなっていた。Jと思われる人影の色は漆黒で、私を見下ろしている。動かずに目線だけで確認すると、人影が二つあることに気づいた。はっとしたが体が動かない。動かないのは自分の意思じゃないと気づくと、恐怖がわいた。

 何か喋ろうとして動かせたのは喉だけだった。かふかふと喉が音を鳴らすと、彼がぞろりと影をこちらに向けた。それはゆっくりと近づき、私の体に触れてくる。ここで感じるはずのない冷たさに、意志を持たない皮膚が収縮した。口から音の出せない私は、喉から細い息を吐き、ひゅっという音をかろうじて出した。

 こんなことをしなくてもあなたを拒んだりしないのに。信用されていないみたいで淋しくなる。それとも趣味なのだろうか。でもこんなことは共有とはいえない。せめて形だけでも同意を確かめて欲しかった。

 くだらない考えはいくらでも噴き出すのに、重要なことをすぐに忘れてしまう。会話を求められていないから言葉から馬脚を露わさずに済んで、思慮深いふりができるチャンスなのに、それをにするところだった。

 すっかり忘れていたが、私はある人から、Jと性行為をして欲しいという依頼を受けていた。どうやら私とセックスした人は、悩みが解決するらしい。そのお悩みというのが、言ってしまうと胡散臭いのだが、いわゆる心霊絡みなのだそうだ。

 前置きしておくと、私には霊感の類いが一切ない。だから紹介された人物の抱えるものや、そのレベルなどを一見して看破することはできない。

 けれど行為が進んでいって対象者が無我に近い状態になると、その内部に巣食う者が正体をあらわす。さっきみた影がそうだ。

 今夜の目的を明確に思い出して、皮膚を這いずる恐怖を押し殺し、Jの成すがままに任せた。

 影が完全に二つに分かれた。一方はまだライトの傍に佇んでいて、もう一方が私の体をまさぐっていた。たぶん、立っている方が本体だ。私を覆う影の放つ冷気は、まさに霊気と呼ぶに相応しいほど凄まじく、芯から震えが来るのはきっと寒さだけではない。

 影は私をしもり殺そうとしているかのように冷気をまとった体で突入してきた。人間の湿り気をすべて凍らせ、潤いのなくなった私のヴァギナにごつい氷柱を突き立てて、何度も抽挿する。痛みが容赦ない。今まで恐怖に震えているだけだった私は、もう声を抑えるのをやめた。けれど音として出ているかはわからない。そんなことはどうでもいい。あまりの痛みで性器が裂けた気がした。絶対に動かないよう影は私を何らかの方法で固定し、足を担ぎ上げ、思い切り開いた扉の奥へ、真上から凍てついた鉄杭を振り下ろした。強烈な激痛が身を貫く。影は上半身を激しく前後させ、私の真上で乱舞している。すると影にもう一体の影が重なった。重なると嘘のようにピタリと動きが止む。そして影同士の顔らしき部分が口づけするように、僅かに交差する形になった。その動きが段々と早くなり、それに合わせ私に没しているものがゆっくりと出入りを始めた。動き出してすぐ、私は潤いを取り戻した。彼は私の奥底を探り当てるように深く重なってくる。陰茎が出入りする刺激にいきなり叩き起された官能が脳表から溢れ出る。体が彼の本能に応えようと内側から喜悦の液を分泌し、それがどんどん彼自身を熔かしていく。地殻から響く息吹の振動が星の最期を告げるように揺らし続け、全身を撹拌され続け、表皮一枚の中がすべて溶けてジュースになった。彼に穿たれた穴だけが私の出口であり、入口となる。ああ穴から、ぜんぶのわたしが流れてしまう。おさまる気配のない揺れの中、私は私の飲み物を振る舞い続けた。


 §


 着信音で目が覚めた。スマホを取り上げようとした手の重さが異物級。諦めて置いたままタップした。

 発信元の声が、おはよう、と言った。私の応える声は真空で喋ったようにまるで響きがなく、渇いた喉は張りついていた。

 発信者になんとなくお礼を述べられているように感じた。部屋には誰もいない。そうか、終わったんだ。

 彼のことを思い出そうとしたが、あまりできなかった。暗いとはいえ、普通にみたのにもう顔すら思い出せない。重い体をゆっくり引き起こして自分を見た。肌に薄く刻まれた広範囲の傷はたぶん火傷だ。すると昨夜自分が抱いたものが一瞬だけはっきりとした姿で過ぎった。昨夜、凍てついた影に取り憑かれた男と、その影と寝た。アレは兄弟だ。私は彼らを熔かし尽くせただろうか。

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