第三十九話  突撃

 皇城突撃一時間前。

 時刻はすでに十一時を回っていた。暗い城下には日灯が点々と漂い、武具の擦れる音や兵士たちの低いさざめきが夜気を震わせる。

 民間人は物陰からその異様な光景を覗いていたが、咎める者はいない。

 中央の天幕──作戦会議室を核に、三万の兵が円を成すように陣取っていた。それぞれが、あと一時間で始まる攻城戦に向け、最後の準備を整えている。

「にしてもよ、ヴィクター。ここ、城からちょっと離れすぎじゃねぇか?」

 天幕前で紺色鎧の留め具を締めながら、ハンニバルが側で地図を睨むヴィクターに声を掛けた。

「いえ。むしろギリギリです。これ以上近づけば灯りで気付かれます。それに、間者がどれほど紛れているか分からない以上、早馬までの距離は遠い方がいい」

 もちろん、間者は必ず潜んでいる。だが、ここまで距離を取れば報告にも時間がかかる。

 この集団の中から突然馬で城に向かえば、それだけで怪しまれる。

 ヴィクターは、そうした条件をすべて勘案した上で、この地点を“最適”と判断したのだ。

「なるほどな。……で、お前、緊張してねぇのか?余裕そうに見えるが」

「余裕じゃありませんよ。一応、心臓の鼓動が自分で聞こえるくらいには緊張してます」

 真面目に返したつもりだったが、ハンニバルは鼻で笑った。

「ヴィクター」

 天幕の奥から名を呼ばれ、ヴィクターは振り返った。

「ウーデルバッハ殿下……そのお姿は?」

 鋼色の鎧に身を包み、兜を脇に抱えた殿下が現れた。

 威風堂々──その言葉がふさわしい。しかし、ヴィクターは眉をひそめる。

「殿下は陣で勝報をお待ちになる、と申されたはず。甲冑を着られる必要は――」

 本来の作戦では、殿下は動かず、ヴィクターらがセドリーを討ち取った後、皇城へ入城する手筈だった。

「わたしも参る。セドリーのもとへ」

「何を言っているのですか! 殿下に万が一あれば、この作戦そのものが瓦解いたします!」

「承知している。しかし──皇城を占拠した不届きの徒が皇族である以上、同じ皇族の血を引くわたしが立たねばならぬ」

 その目には迷いがなかった。

 だが彼は十四歳。初陣にしてはあまりに若い。

 ゆえにヴィクターは戦いから遠ざけてきた。それに、総大将が無闇に前へ出るべきではない。

「しかし!……バルトランド!」

 ヴィクターは、殿下を止めなかった執事へ鋭く視線をむけた。

「ヴィクター。殿下は覚悟を固められた。これを、従者たる我らが止めることはできぬ」

 主の決断を、従者が覆すことはできない。たとえお目付役のバルトランドであっても。

「ヴィクター」

 殿下が二度、名を呼んだ。

 その声音に、ヴィクターは観念した。

「……わかりました。ただし、俺と共に動いていただきます。決して、俺の傍を離れないようによろしいですね?」

「わかった。すまない。だが──これは譲れぬことなのだ」

 バルトランドが静かに歩み寄り、殿下へ兜を差し出した。

「珍しい甲冑だな」

 ハンニバルが目を丸くするのも無理はなかった。

 殿下が身に着けた鎧は、この時代の意匠にはそぐわない重厚な造りで、一目で古いものだとわかる。

「これは、亡き皇帝陛下が初陣の際に着用された甲冑です」

「ほう? 二十年以上前の代物だろう。それがなぜここに?」

「先ほど、第三皇妃様の従者が天幕へ参り、殿下にお渡しになりました」

「第三皇妃──つまりリューグストフの母君か。わざわざ従者まで使ってか」

「ええ。第三皇妃様にも、何かお考えがあったのでしょう」

 その「思い」が何であるか、誰も口にしなかったが、皆が察していた。

 ――セドリーへの報復。

 息子を殺された母の、静かな怨念。

 ミハイルはどこか居心地悪げに俯いていたが、ヴィクターが軽く肩を叩き、緊張を和らげる。

「よく似合っているぜ?」

「叔父さん……」

 ハンニバルの素直な称賛に、殿下は照れくさそうに耳を赤らめた。



 時刻は十一時五十分。

 出撃まで、残りわずか。

 ヴィクターは兵士たちの先頭に行き、灰色のたてがみをもつ黒馬に跨がると、周囲の兵士たちの視線が一斉に向けられる。

 彼は大きく息を吸い込み、声を張り上げた。

「集まった者たちよ、聞け!」

 ざわついていた兵たちがぴたりと声を止め、鋭いまなざしがヴィクターへと集まる。

「アレス中将が配下、ヴィクター・アドラー大尉だ!」

 ヴィクターの声が、夜の陣地に轟き渡った。

「皆、よく集まってくれた。作戦を始める前に一つだけ言っておきたい。我々は反乱軍ではない! 謀反人でもない! 大義は我らにあるのだ! 今日、我らが勝ち、腐敗した国を変えるぞ!」

「おおおおおおおお!!」

 覚悟を帯びたその叫びに、兵士たちの士気は一気に頂点へ押し上げられる。

 彼らの胸にくすぶっていた謀反ではないのかという不安、それが死を分ける弱さであることをヴィクターは知っていた。

 だからこそ、戦う理由を明確に叩きつける必要があった。

 不平も怒りも鬱屈も、すべてセドリーへ向けさせるために。

「ウーデルバッハ殿下!」

 ヴィクターは天幕の影から殿下を呼び、白馬へと乗せる。

「おお! ウーデルバッハ殿下だ!」

「若ーーーー!」

「殿下あああ!!」

 兵士たちが歓声を上げる。

 その熱気に押され、十四歳の少年はほんの一瞬だけ肩をすくめた。

 だが――。

「殿下。大丈夫です。あなたなら出来る。最後は、あなたの声で」

 ヴィクターが殿下の背を軽く二度叩いた。

 その瞬間、ウーデルバッハの瞳が決意の光を帯びる。

 彼は深く息を吸い込み、兵士たちを見渡した。

「よく集まってくれた! 私のために……いや、この国のために! 共に戦えることを誇りに思う!」

 若い声は震えず、むしろ澄んで陣地に響いた。

「細かいことは言わぬ! だが、これだけは約束しよう! 我らが勝利した暁には、私は必ず良き皇帝となる! これは、そなたらとの約束だ!」

 殿下は銀に輝く剣を抜き、天へ掲げる。

「おおおおおおおおお!!」

 兵士たちの咆哮は大地を揺るがし、夜気を震わせた。

 その熱を背に――。

「出撃――――!!」

 ヴィクターの号令と同時に、万を超える騎馬と歩兵が一斉に皇城へ向けて駆け出す。

 馬蹄と足音の奔流が城下の地面を震わせた。

 帝国を変える戦いがいま始まる。

 世界を巻き込む火種が、確かに灯されたのだ。

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