第三十八話 乗り越えて

 ――彼の言っていることが、私にはわからなかった。

 本音と言われても、思い当たるものがない。

「本音? それは、さっき言ったこと――」

「違うな。お前は……まだ死にたくないんじゃないか?」

「いや――」

 否定の言葉が喉まで出かかった瞬間、私は口を閉ざしていた。

 まるで図星を刺されたように、息が止まる。

 たしかに、さっきまでは本気で死ぬつもりだった。

 刺し違えてでも終わらせるつもりで、迷いなど一つもなかったはずなのに。

 ――今は違う。

 この男の言葉で。

 この男の言葉だけで。

 気づけば、いつから本音なんて口にしていなかったのかと思い始めていた。

 そんなこと、今まで考えたこともなかったのに。

 頭の奥で、忘れていた記憶が急に音を立てて目を覚ます。

 走馬灯……?

 いや、違う。

 父は下級貴族だった。

 娼館で働いていた母と恋に落ち、そして生まれたのが私。

 だが、妊娠を知った父は、逃げるように姿を消した。

 恋に落ちていたのは母だけだったのだ。

 貴族からすれば、娼婦は所詮、娼婦。

 身分違いの恋など、初めから成立しない。

 母だけがそれに気づけず、必死に縋っていた――哀れなほどに。

 それでも――十六歳になるまで、身銭を削って私を育ててくれた母には感謝している。

 私は軍に入り、給金をもらいながら生活できるようになった。母へも毎月仕送りを欠かさなかった。だがそれでも、平民と貴族のあいだには埋まらない深い溝がある。

 混血の私は、貴族からは蔑まれ、平民からも疎まれた。

 訓練校では男たちに襲われかけたこともある。

 日常の暴力は、年を重ねるほどに増えていった。

 十八歳の時――あの方が私を救い出してくれた。

 ダグラス侍従武官。

 突然、私を側近に任命し、多くの任務に連れ出した。

 彼が見ていたのは、私の力だけだとわかっていた。それでも。

 どこかで、信用されていると。信頼されていると――愚かにも思ってしまっていた。

 ただ利用されていただけなのに。

 汚れ仕事も、何度もしてきた。

 私の手はもう血に染まりきっている。

 いずれ彼にも処分される。そんな未来は、とうの昔に理解していた。

 だから――殺されたいと思った。

 それが私の本音だと、ずっと思い込んでいた。

 なのに。

 どうして、さっき黙ってしまった?

 ヴィクターの言葉に即座に否を返せなかったのは、なぜだ?

 本音……本音は。

「……母さんに、会いたい……」

 言葉が零れた瞬間、涙が止めどなく溢れた。

 仕送りは続けていた。けれど、顔を合わせることはできなかった。

 人と向き合えるような仕事ではなかった。

 八年以上――身体じゅうに返り血の匂いを染み込ませたまま、会いに行けるはずがなかった。

 それでも願ってしまう。

 叶わぬと知りながら。どうせ私は殺されるのに。

「そうか。……アナスタシア」

 ヴィクターは静かに微笑むと、背に乗っていたアナスタシアをどかした。

「どういう、こと?」

「本音を言えたな、ミハイル。――母に会ってこい。母に会って、それでも死にたいなら……その時は俺が殺してやる」

 そう言って、ヴィクターは立ち上がり、迷いのない手を差し伸べてきた。

 私はその手を見つめながら、震える声で問い返す。

「……何故、助ける? 私を生かしても、あなたには何の得もない。殺すべき相手だろう」

 ヴィクターはわずかに目を伏せ、淡々と、それでもどこか遠くを見つめるように言った。

「俺の両親は、俺が幼い頃に二人とも死んだ。……生きているうちに会っておけ。そう思っただけだ」

 その声には、偽りがひとつもなかった。

「生かして、弱みを握って……私を利用するつもりなの?」

「は? そんな気はさらさらない。もう俺の駒は揃っている」

 本当に――この男は、私を返すつもりなのだろうか。

「じゃあ……あなたはいったい何を考えているの? 目的は?」

「帝国を変えたいんだよ。腐りきった、この国を。貴族と平民なんてくだらない括りに縛られて、誰も前に進めない。そんな国に未来はない。だから全部、変えてやる」

 世迷い言じゃない。

 彼は本気でこの国を変えるつもりで言っている。

「……それ、ウーデルバッハ殿下も同じ考えなの? あなた一人の意見じゃなくて?」

「殿下も同じだ。だから俺たちは殿下についた」

 一将校の戯言ではない。

 しかも、貴族の中に――こんな思想を持つ者がいるなんて。

 自然と視界が滲んだ。

 ウーデルバッハ殿下なら、本当に帝国を変えられるのかもしれない。

「さて……行くぞ。ったく、お前のせいで宿舎代は高額だろうな」

 散らかった部屋をぐるりと眺めて、ヴィクターは苦笑しながら軍刀を帯びる。

 そして部屋を出ようとした、その背に――。

「待って!」

「……何だ?」

「私も……連れてって!」

 自分でも馬鹿だと思う。

 それでも――見たいのだ。

 この目で、国が変わる瞬間を。

「母親に会いたいんじゃなかったのか?」

「会いたいよ。でも……会うなら、国を変えてから。母さんに胸を張って会いたい」

「この戦いで死ぬかもしれないんだぞ?」

「かもね。でも……あなたは、私が死ぬとは思ってない。違う?」

 ヴィクターの目が細くなる。

 否定しなかった。

 その沈黙だけで、十分だった。

 こうして私は――ヴィクターと共に、ウーデルバッハ殿下を支えることになったのだ。

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