第三十六話 決戦前夜
皇城占拠から、すでに十二時間が経過していた。
城内は、まさに地獄絵図と化している。
侵入した兵たちは護衛兵を惨殺し、メイドを犯した。従者たちも一人残らず見つけ出され、次々と殺されていった。
もはや彼らを咎める者など存在せず、暴虐が野放しとなっている。
一方、皇族たちはひとつの部屋に集められ、重い監視のもとに置かれていた。
皇族に手を出そうとした兵もいたが、セドリーがそれだけは固く禁じていたため、見張り役たちはそれ以上の狼藉を控えている。
――五月八日。
朝日が城下町を照らし始める頃。
「いったい、いつまで私を待たせるつもりだ、ヴィクターは!」
ウーデルバッハは貧乏揺すりを止められず、右足がせわしなく震え続けていた。
「焦りは禁物ですぞ、殿下」
隣でバルトランドが静かに諌める。
「分かっている! だが――」
集合からすでに一時間以上が経過している。
本来なら、すぐにでも母たちを救い出したいが――。
ウーデルバッハの顔色には、焦燥が隠しきれず浮かび上がっていた。
その場にはウーデルバッハをはじめ、アレス、ハンニバル、カルステン、その他名だたる将校たちが集い、ヴィクターの到着を待っていた。
皇城占拠の影響で城下の人影はすっかり消え、ひどい静けさが広がっている。
そのため客もおらず、父ライゼンベルフがかつてよく利用した酒場を、急遽指揮所として借り受けていた。
円卓を囲む重苦しい空気。その中で――。
ガラガラ、と入り口の戸が開いた。
ついに中心人物が姿を現したのである。
しかし、いつも傍らに侍らせている“白銀の女”だけでなく、その後ろにはもう一人、新たに側近と思しき人物を連れていた。
「皆さん、お待たせしました」
入室したヴィクターは挨拶を告げると、円卓の中央に帝都全体を示す地図を素早く広げた。
「ほんとだぜ。一時間以上も待たせやがって……。で、策はあるんだろうな?」
ハンニバルが朝食のパンを咥えたまま、やや不機嫌そうに問いかけた。
「はい。ご心配なく。すでに作戦は詰め終えています。これより説明を――」
「悪い、いきなり腰を折るが……後ろの奴は味方か? ダグラスの側近だったはずだが」
作戦説明の前に、アレスがヴィクターの背後に控える襟足の長い将校へと鋭い視線を向けた。
「ミハイルのことは気にしないでください。一応、こちらの仲間です」
「お前がそう言うなら信じるが……。裏切りの心配はないんだろうな?」
「大丈夫ですよ。――ね?」
ヴィクターは、隣に控えるミハイルへ視線を送る。
ミハイルは無言のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
「……はぁ、分かった。お前を信用しよう。――続けてくれ」
「はい。では本題に入ります」
ヴィクターは地図に手を伸ばし、皇城トライへリアルを指さした。
「皇城には三つの主要な入り口――正門、東門、西門が存在します。まずはここを同時に攻撃します」
地図上には、石で作られた丸みを帯びた駒のようなものがいくつも並べられていた。それぞれが軍勢を示す印だ。
ヴィクターはそれらの駒を手に取り、滑らかに動かしていく。
「東門にはハンニバル准将。西門にはルリ。そして正門には、俺とミハイルが向かいます」
「しかし、それだけの人数では――」
「ええ。だからこそ、ハンニバル准将に兵を呼び戻していただいたのです」
ヴィクターはウーデルバッハの疑問に穏やかに応じた。
「准将の二万の軍勢を三つに分け、それぞれ八千規模の部隊として配置します」
「八千か……。だが、敵は四万いるという話もあるぞ」
「でしょうね。セドリーが帝国中へ使いを放ち、莫大な金で傭兵をかき集めましたから。さらに、彼を慕う貴族たちの戦力も加わり、四万以上になっていてもおかしくありません」
セドリーは皇城占拠に先立って帝国全土へ情報を飛ばし、傭兵を大量に雇い入れていた。そこへ一部の貴族派閥の軍勢が合流した結果、敵軍は膨れ上がったのだ。
「数では負けるでしょう。しかし、我々が勝っているものが一つある。――殿下、分かりますか?」
ウーデルバッハへ向けられた問い。ただし、答えを求めていない口調だった。
ヴィクターは間を置かず、自ら答える。
「実力です。敵は傭兵とはいえ、所詮は金で雇われた荒くれ者の集まり。
対してこちらは、休暇中だったとはいえ、ハンニバル軍は数々の戦地を渡り歩いた歴戦の兵ばかり」
ヴィクターは指で地図の駒を弾くように押し進めながら続ける。
「統制も取れていない烏合の衆に、経験豊富な軍隊が負ける道理はありません。――そうですよね?」
挑発するように視線を向けられたハンニバルは、にやりと口角を上げて答えた。
「ああ。当然だ。奴らは鬼となって戦うだろう」
「上出来です。そして――先日申し上げたように、我々が戦闘に入った瞬間、カルステン先任参謀にはアレス准将の一万を率いて参謀本部を掌握していただきます」
カルステンは静かに頷き、意思を示した。
「城内へ侵入したら、皇族の方々の救出。そして城内の敵の掃討。俺たちはセドリーがいると思われる玉座の間へ向かいます」
それぞれ作戦を理解したのか質問はなく会議も終了が近づく。
「それでヴィクター。突入はいつだ?」
「今夜。日付が変わる瞬間です」
深夜〇時――。
帝都がもっとも眠りに沈む時間帯、大半の兵は動きが鈍る。その隙を衝く算段だ。
「では、各員。行動開始まで英気を養ってください。再集合は、突入一時間前とします」
「ヴィクター」
宿へ戻る途中、澄んだ女声が背を呼び止めた。
「ミハイルか。どうした?」
「……君を信じて、いいの?」
「もしかして、まだ迷っているのか」
「ち、違う! 覚悟はもう決めた。ただ……胸の中のモヤがどうしても晴れなくて」
彼女自身でも説明しきれない揺らぎが、まだ心に残っているのだろう。
「なら、やめればいい」
ヴィクターは淡々と言い放った。
「……え?」
「無理に参加する必要はない。あなたが俺を殺しに来た件も表に出すつもりはない、軍を辞めて別の道を歩くことだってできる」
冷たい言葉ではあるが、事実にすぎない。
そして今の彼女に、優しい慰めを掛ける時間もない。
「あんたは信じたから、俺たちの側に立ったんじゃないのか?ウーデルバッハ殿下なら帝国を変えられると思ったから、ここにいるんだろう。なら迷うな。自分の信じた道を進め」
甘言など必要ない。
必要なのは、ただ事実と選択だけ。
これで折れるようなら、彼女は最初から軍の中に居続けていない。
――彼女は来る。
ヴィクターには、それが確信めいて感じられた。
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