第2話 太ももにパンダの青あざ

 あっ、やった。ひらべったい本屋のなかのこじんまりした雑貨コーナーで、そう思った。おなじことをやってる子は友だちにもいたから分かるんだ。万引きだ。見張りをやらされたこともある。見慣れたわたしでも息を呑むぐらい、みごとな手口だった。とくにバスケのノールックパスみたく目を逸らさせる首振りが堂に入っている。下着が見えそうなほどスカートがみじかくて、ひかりが弾けたような金髪が肌もすけるぐらいベリーショートな子。うなじがおろしたてのコピー用紙みたいにしろい。すれちがうとき、雨のまえみたいな匂いがした。セーラー服の紺色のリボンがゆるくて、胸元がおおきく開き、かたちのいい鎖骨と、あおくさい桃みたいな谷間がはっきりと見える。夏休みなのに塾に行っていたのか、地元の中学の制服のはずだ。おないどしだろうか?

 なだらかな肩にまっくろいエナメルの学生カバンをひっかけ、アクリルのストラップをじゃらじゃら揺らしながら、足早に去っていく彼女のうしろを追いかけた。万引きしたくせ、胸をはって、姿勢がすごくいい。ぎりぎりのくるぶしソックスのうえの、薄荷色のマシュマロみたいなふくらはぎに惹きつけられたみたく小走りになった。わたしは彼女と友だちになれると思ったし、なりたい、ならなきゃいけないと思ったんだ。

 わたしたちは息をするみたいに万引きをしたけれど、地元のお店には、どんなに店番のおばあちゃんがうつらうつらと船を漕いで隙だらけでも、つぶだかのあおいトレーのうえに置いたままのくしゃくしゃの千円札にも、けっして手を出さなかった。なにもなくなったあの町に店を出してくれているような意味ともいえない意味をよく分かっていたからだ。むしろ、いてくれるだけでよかった。そしてわたしたちもおなじように「いてくれているだけでいいよ」と言われたかった。その切実さはJポップで歌われるような耳ざわりのいい「君はそのままでいい」とはぜんぜん違う。ぜんぜん、耳ざわりがよくなんてない。生きるというのはほかの町の子にとって生活のことだろうけれど、わたしたちにとってはそんな三角コーナーに入ったさかなの骨みたいに、なまぐさいもんじゃない。

 そしてソレーネで見つけた、まぶしい金色の髪の、ふとももにパンダのかたちのあおあざのある女の子に、わたしはいきなり、惚れた腫れたより運命的に、近いものを感じた。彼女はわたしたちとおなじような理由とか意味とかやりかたで「生きにくい」んじゃないかって、そんなことを想像した。それは震災からもう十五年たち、「生きにくさ」がむずかしくなり、こまかくなって、ハンバーグがなにでできてるかみたく、問題が問題とも思えなくなったいまどき、奇跡に近いことだった。

「なんかあんの?」

 ふいに彼女はふりかえり、わたしにめがけナイフを投げるような鋭さで、しかし甘ったるく語尾のふたしかな声をぶつけてきた。さすがに追跡はバレていたか(わたしも革靴をひきずる癖のある音を隠そうともしなかった)。そこは本屋のすみっこにカギの字で入り組んだほこりくさい通路の奥だった。うすっぺらいベニヤ板には色あせたグラビアのポスターが乳首にきんの画鋲を刺されており、十字のビニル紐でしばられたワンピースの最終巻がジェンガみたいに積まれている。人目につかないところに誘いこみたかったわけだ。こんなふうに、このソレーネの、秘密のあやしい場所をたくさん知っていることだろう。わたしは彼女のどろぼう猫みたいな嗅覚に、うっすら透けた黒のブラジャーとか、あえて不細工にしてるんじゃないかというぐらい似合わない化粧とともに、アームがすかすかのUFOキャッチャーのぬいぐるみみたいな好感をもった。

「あんただれ?」

 彼女は切れ長の目をいっそう細くし、ぷりぷりのいちごみたいなくちびるの端をゆがめ、そう尋ねてくる。果たしてどう答えたらいいものだろうか。そもそもわたしが誰なのか、わたし自身も分かっていないのだから。幼いころからわりと頭がよく、県でいちばんいい高校によゆうで入れるぐらい成績もよかったわたしがたったひとつ分からないもの、それが「わたし」だった。

「この町の子じゃないよね?」

 そう言われ、二度うなずいた。それはソレーネに来て、わたしがわたしを肯定できる、たったひとつの確かなことだったから。

「名前は?」

 そう尋ねられ、今度は首をかしげる。名前は定義であり、正義だから、口に出すのはこわい。わたしは彼女に相対し、わたしがわたしを定義するのではなく、親に定義してもらうのでもなく、彼女にわたしを定義とか水をみつけたヘレンケラーみたいに、分かってほしかった。

「ないんだ」

 そう言われ、うれしくなって、わたしはうっかり、口もかくさず笑ってしまった。はずかしくて目線をあげると、彼女もたぶん、わたしとおなじ顔で笑っていた。前歯のならびが触れたくなるぐらいオルガンの鍵盤みたいにいびつだった。

「あたし、ラブ!」

 彼女はそう言い、おどるようにフレミングのかたちの左手を差し出してきた。本名なのかどうかは、なぜ右ではなく左手なのかに比べれば、どうでもよかった。彼女――ラブが左利きで、右腕にはびっしり剃刀の切り傷が入っていることに思いいたるのは、朝つゆの草むらに裸で抱きあったまま寝ることもあったくせ、ラブに会えなくなってやっと数年後のことだった。

「きみは、ピースね」

 そううながされ、ラブの、薬指にだけ指輪のない左手をそっと握れば、ラブはぐいと手を引き寄せ、右手をわたしの腰に回した。けっして華奢ではないけれど、女の子とは思えないぐらい、つよい力が入っていた。

 万引きとおなじく、わたしの初めてをうばう手口も見事だった。梨みたいな味がしたのは、青春がポルノなのとおなじで、ぜんぜん、きれいじゃない。

 ソレーネにきてゼロ日目。わたしは初めて名前をもらい、わたしには初めての恋人ができた。恋人は、ましろい肌にハーケンクロイツのまっくろいピアスが似合う、ほっそりした中指のながい、女の子だった。いまどきみたいにパートナーと呼ばないのは、ラブとピースはふたご素数みたいに、似ているくせ分け合えるものは、羽根つきの生理ナプキンすらなかったから。

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