&
にゃんしー
第1話 ソレーネ
台風がすぎるとこの町はイギリスになる。台風一過のあおいそらに顔をしかめ、わたしはそんなことを思った。空は窓ガラスにうつっている。そこにイギリス国旗みたいに引かれた、キャラメル色のガムテープ。この町ではちゃんと生活が営まれている。そんなことが眩しかった。
わたしはそれがあまり当たり前じゃない町に育った。わたしの生まれるよりまえに、すごい原発事故があり、みんな住めなくなったんだって。台風がきても、蜘蛛の巣もように割れた窓ガラスはそのまま、朽ちていくだけ。それが当たり前だった。町によって当たり前は違うという、そんな当たり前のことを、この町に来て初めて知り、快晴を祝うかのように町中をかざるユニオンジャックに、わたしは胸をかきむしりたくなるような羨ましさを持てあますのだった。
わたしの町も空がすごかった。この町の空もわるくないけど、きれいとかじゃなくて、ただ、すごい。ある詩人は「ほんとうの空」とうたったという。見渡すかぎりのパーフェクトブルー。太陽は東からのぼるから、早朝、パジャマのまま、しろい息をきらしつつ裸足にサンダルで岸壁を走り、あの地震の日から高くなった防潮堤を駆けあがれば、水平線がほんのり白んでいく。このとき、時間の流れがゆっくりになる。空のいろがゆっくりと変わっていく。漆黒から群青へ。群青からまろみを帯びた青へ。わたしの知らない青もまだあって、好きな子が嘘をつくときの癖を見つけたみたく、どきりとする。秘密が明かされるみたいな朝陽と、それを綴じていく、映画のエンドロールみたいな夕陽。なにもなくなった町の、空は、ただ空だけで、わたしは救われたし、報われた。空を見ているだけでよかった。
この町の空も、まあきれいかな。高架のJRの駅を降りて、ひと月分のおおきなキャリーケースをがたがた引きずり、イオンとつながるひろいロータリーを歩いているとき、午睡にまどろむ個人タクシーの真上、一機のちいさな飛行機が空をすべっていった。そんなことはわたしの町ではなかったから、おどろいた。しばらく、といっても三十秒ぐらいだろうけれど、首が痛くなるぐらい空を見上げて、その飛行機のまっすぐな軌跡を追った。それで「空を見上げていると悲しいことを考えられなくなる」みたいなフォークソングを思い出し、苦笑した。上を向けば、涙はこぼれなくても、前に歩くことなんかできやしないのに。あのやさしい声のミュージシャンを吸いこんだ、空。
原発事故の町からなんで逃げなかったのか、聞いてないし、聞けてない。わたしの父は開業医で、原発の近くではいちばん大きな内科と精神科の病院を経営しており、母はそこの事務長だった。ふたりが病院を捨てて逃げることは、地域の医療だとか、患者を見殺しにすることだと、わたしは物心がついたころにはすでに分かっていた。拾われてきた犬みたいな、へんに物分かりのいい子どもだったと思う。ほかの病院では、原発事故で避難した入院患者がかなりの割合で亡くなったことも、誰に聞かされたわけでもないのに知っていた(うちの町は、地震そのもので死んだのではない災害関連死の死者がとびぬけて多い)。それに、両親を責めて謝られるのは、許さないといけないからすごくいやだった。聡明なふたりのことだし、屋内退避が命じられた土地に(もちろん、あの時期は北西にふく風向きも考慮せず原発から同心円で避難区分が設定されたのは理解できないけれど)まだ乳離れもできていない子どもを住まわせることの意味はよく分かっていただろう。それに、謝られたところで、母体が浴びた毎時20マイクロシーベルトぐらいの強烈な放射線(ややこしいのだが、年間に換算すると175ミリシーベルトほどで、チョルノービリの避難基準もおおきく越え、白血球が減少をはじめる程度にちかい)が消えるわけじゃない。ましてや生理が来たときのぐずぐずの気持ちになんか半減期はない。
中学に上がったころだったか、恋愛トークのなかに声をひそめて混じりはじめたレズだのバイだのに加え、アセクシャル、という言葉を知った。誰かを愛するために性的な結びつきを求めないという意味だ(たぶん)。わたしはこれになろうと思った。どうせまともな子どもなんか作れないんだから、そうじゃないやり方でひとを愛したかったし、そういうふうに愛してほしかった。
ほんとうはそんな立派なものじゃなく、ヒバクシャという声のちいさなマイノリティですらなく、「なんで産んだの」って思うだけのありふれた思春期の女の子なのに。
中学生さいごの夏休みを、そうじゃないやり方で、なにものでもないように過ごしてみたい。遅れてきた反抗期じゃないけど、初めてそうわがままを言い、おこづかいを貯め、特急と新幹線をマルいちにち乗りついで、このおなじように空がきれいな町にやってきた。来てすぐに駅のキオスクで日本酒を見定めているとき、「ソレーネ」という言葉を聞き知った。ちょっとしたイタリア語みたいにも聞こえるが、どうやら当地の方言らしい。どこかのどかなこの町に似合う。空をみあげて呟いてみたくなる。
「ソレーネ」
空はつながってない。だってこの空はシーベルトに侵されてない。わたしはあの事故を起こした大人たちを憎み、そういうふうな大人になりたくなかったし、手首はかわいそうぶるみたいで切れないけれど、おかっぱの前髪をみじかく切るときの、ふるえる指の思いきりこそがわたしにとって、「生きる」ことへの切望に近かった。
また飛行機が飛んでくる。空港でもあるのかな。ずいぶん小さいように見えるけど。
「ソレーネ」
機影が消えるまで見送る。目が痛くなるぐらい睨んでからうつむくと、水たまりにも空が映っている。おどろいた無垢な水晶体にも。ぴかぴかなジャパンタクシーのまっくろいボンネットにも。
ここは空が世界で二番目にきれいな町。ソレーネ。
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