第4話 心の距離

それから数週間。

 東邦トレーディングとフレア広報の合同プロジェクトは、順調に進んでいた。

 相沢翔真と新田美桜のコンビは、社内でも「奇跡のペア」と呼ばれるようになっていた。


 翔真の冷静な判断力と、美桜の柔らかな発想。

 正反対の二人が組むことで、プレゼン内容は磨かれ、クライアントの評価も上々。

 ただ、社内では別の意味で注目を集めていた。


 「ねぇ、相沢主任と新田さん、最近めっちゃ仲良くない?」

 「まさか、あの氷のエースが……?」

 「うそでしょ、あの人、人間だったの!?」


 そんな噂が、昼休みのオフィスを賑わせていた。


 ある日の午後、翔真は社内の打ち合わせ室で資料をまとめていた。

 そこへノックの音。


 「失礼しまーす!」

 軽快な声とともに、美桜が顔を出す。

 「相沢さん、ちょっと相談があって!」

 「……また新しい企画か?」

 「はいっ! 聞いてください。“雨の日デート広告”どうですか?」


 「……デート?」

 「うん。“アクアシールド”をテーマに、カップルの雨の日を描くんです。

  “濡れても笑顔でいられる二人”って、商品コンセプトにも合ってると思いません?」


 翔真はしばらく黙って、美桜の顔を見た。

 彼女の目はキラキラしていて、まっすぐだ。

 その情熱がまぶしくて、少しだけ目を逸らす。


 「……悪くない。だが、撮影モデルの設定を明確にしろ。」

 「じゃあ……モデル、相沢さんで!」

 「は?」

 「え、ダメですか? クール系のスーツ男子、絶対映えますよ!」

 「俺は広告塔じゃない。」

 「そこをなんとか!」


 彼女が机の前に手をつき、ぐっと身を乗り出す。

 距離、近い。

 柔らかな香りが、ふっと鼻をかすめる。


 翔真は思わず咳払いをして、視線を逸らした。

 「……撮影モデルはプロを使え。」

 「じゃあ、もしモデルさんが来られなかったら、相沢さんで代打、ってことで!」

 「勝手に決めるな。」

 「うん、了解です♪」


 全然了解してない。

 翔真は内心、頭を抱えた。


 翌週。

 プレゼン前の準備で二人は外出することが増えた。

 移動中のタクシー。

 渋滞に巻き込まれた車内で、美桜がぼんやりと窓の外を眺めていた。


 「……雨、降りそうですね。」

 「そうだな。」

 「相沢さんって、雨の日、好きですか?」

 「嫌いじゃない。静かで、考えごとができる。」

 「私は好き。なんか、街の音が優しくなる気がして。」


 そう言って、彼女は微笑んだ。

 信号待ちで、夕暮れの光が頬を照らす。

 その横顔を見た瞬間、翔真の心臓が一瞬だけ跳ねた。


 「……何か、言いたそうですね?」

 「いや。」

 「え〜、なんですかその反応。」

 「お前は、人の心を読むのが趣味か?」

 「うん、特技です!」


 翔真は苦笑した。

 “苦笑”——それは、彼が久しく忘れていた表情だった。


 社に戻ると、同僚の佐伯がニヤニヤしながら寄ってきた。

 「主任〜、最近、新田さんといい感じっすねぇ〜?」

 「何の話だ。」

「いや〜、オフィスの噂になってますよ。“氷が溶けた”って!」

「くだらん。」

「でも主任、最近表情柔らかいっすよ。目が優しい。」


 その言葉に、翔真は少しだけ沈黙した。

 自覚はなかったが、美桜と接してから、確かに心のどこかが少し変わった気がしていた。

 それが何なのかは、まだ言葉にできない。


 翌日。

 広告撮影の現場。

 外はあいにくの小雨。スタッフたちはテントを設置し、モデルの準備に追われていた。


 だが、突然トラブルが発生。

 予定していた男性モデルが体調不良でキャンセルになったのだ。


 「え!? どうしよう……!」

 美桜が慌てていると、スタッフの一人が言った。

 「スーツも用意してるし、代役誰かいませんか?」

 美桜が、ゆっくりと翔真の方を見た。


 「……ねぇ、相沢さん。」

 「断る。」

「まだ何も言ってません!」

「言わなくても分かる。」

「お願いですっ! このままだと撮影中止になっちゃう!」


 美桜は両手を合わせ、上目遣いで懇願した。

 その表情にスタッフたちも「お願いしちゃいましょうよ〜」と笑う。

 翔真は大きくため息をついた。


 「……五分だけだ。」

 「やったぁ!」


 そうして、急遽“代役モデル”となった相沢翔真。

 白いシャツに濃紺のスーツ。

 手には折り畳み傘。

 美桜と並んで立つと、スタッフたちが一斉にざわめいた。


 「わぁ、絵になる〜!」

 「本物のカップルみたい!」


 美桜は少し頬を染め、そっと傘を広げる。

 雨粒がポツポツと落ちてきた。

 翔真の肩にかかる水滴を見て、彼女が小さく囁く。


 「……ほら、濡れても笑ってください。」

 翔真は一瞬だけ目を見開き、そして微かに笑った。

 カメラのシャッター音が、雨のリズムに重なる。


 撮影後、二人は雨の中を歩いていた。

 傘を持つのは美桜。翔真はその隣を静かに歩く。


 「今日は助かりました。ありがとうございます!」

 「別に。仕事だ。」

 「でも、ほんとにかっこよかったですよ?」

 「お世辞は嫌いだ。」

 「じゃあ本音です。」


 彼女の笑顔が、街灯に照らされて柔らかく光った。

 翔真は思わず、心の中で呟いた。


 ——この人といると、空気が違う。

 息がしやすい。


 数日後。

 完成した広告ビジュアルが社内に共有された。

 画面には、雨の中で笑う男女。

 その表情には、どこか温かいぬくもりがあった。


 翔真はその写真を見つめながら、小さく微笑んだ。

 そして、隣にいた美桜がぽつりと呟く。


 「ね、やっぱり“濡れても笑う人”って、素敵ですよね。」


 その言葉に、翔真は答えなかった。

 ただ、彼の中で確かに何かが動き始めていた。

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