第6話 個人誌1,100円
「今居は驚かせて悪かった。今日の俺は、運悪く満月だからこの姿だ。そん時以外はお前らと同じ人間型だし、常に話は通じるから困ったときはいつでも言え。バイトから逃げたい時は一ヶ月前に言えよ。社保や埋葬料支給申請手続きめんどくせえから」
それは冗談なのか、本気なのか。今居は曖昧に笑う。正直今も膝が震えるし、背中の辺りは変な汗が滝のように流れているのだが、眼前の『狼男』は伏見曰く副店長だ。伏見もあれからさっさといなくなってしまったし、言う通りにしておいた方がいいだろう。
「そうですね、人生の節目ってお金かかりますし……」
「冗談に決まってんだろユーモアセンス粉砕してんのか」
冗談だった ―― 今居は深く項垂れる。冗談なら冗談らしく楽しく和やかに振ってほしいのに、犬吠の眼光と乱暴な口調でブラックジョークが犯罪スレスレになっている。
「犬吠副店長も現場でお仕事なさるんですか?」
一方加古川は犬吠の風体など全く気にしていないようだ。笑みさえ浮かべて質問をぶつけている。犬吠は長い爪で首のあたりの毛を掻いた。
「めんどくせえから副店長までつけなくていい。俺は事務メインで、余程人手がない時かトラブル処理の時以外は出ねえな」
「トラブルですか……万引きとか多いですよね」
今居は以前のシフトを思い出す。本屋は毎日万引き等犯罪行為との戦いだ。諸問題があるため手口は明かせないが、あの手この手で商品を盗まれていくため、今居も苦労した。難しい顔をしている今居を犬吠はしばらく見つめていたが、ふと肩を竦めた。
「万引き窃盗は、まず間違いなく起きねえよ」
「そうなんですか⁉」
「そうなの?」
今居は犬吠に、加古川は今居に驚く。盗まれないということが、どれだけ驚くべきことなのか、彼女にはわからないらしい。犬吠は加古川にもわかるように説明を始めた。
「一般店舗だとな、金払わず本だのなんだの持って行っちまう奴多いんだよ。そのために出入り口にゲートつけたりして防いでるんだ。一〇一にもあるけどな、加古川は見たことあるだろ」
「防術結界のことですね、外部からの悪しき者に対する侵入防止だと思っていました」
「どちらにも対応してんだ。本部特製だ」
二人の会話を今居は興味深く聞く。ここの防犯ゲートは結界らしい。結界に抵抗がなくなっている自分は、かなりオカルトな頭になってきたと思う。
ふと犬吠は、伏見が置いていった魔法書を手に取ると、近くの窓を開けた。
「ゲートは防犯のためにあえて大仰にしているとこもあるが、実際は建物全体に結界を貼っている。来店客は全て能力者で、術者レベルも幅広いからな」
加古川は真剣な様子で頷いている。犬吠は本で手を軽く叩いて見せた。
「一〇一はライト層向けの本しか置いてないものの、その中には定価は超えないが高額な商品もある。それらを魔術で隠し持っていこうとする奴は多い。でもこの結界を通せば ―― 」
そこまで言って、犬吠は本を思いきり振りかぶって窓の外へ投げた。窓の下は道路だったはず。下に誰かいたらどうするのだ。今居は思わず息を呑む。しかし勢いよく投げられた本は、窓を出ようとした瞬間音もなく霧散した。
「最後に入っていた棚に戻るってわけだ」
犬吠が親指を向けた先へ二人が視線を動かせば、消えたはずの魔法書は最初に伏見が取り出した棚へ戻っていた。今居はふと疑問に思う。
「どうやったら結界の先へ持ち出せるんですか」
「会員カード通したら」
「あっ……会員カード、あるんですね……」
「アプリもあるよ!」
加古川がはしゃいだ声で付け加えてくれる。その辺は普通なんだ。今居は乾いた笑いを浮かべた。魔法使いの会員登録時、職業欄はやはり魔法使いと書くのだろうか。
「それじゃ、そろそろ棚出し班に行くぞ」
犬吠に促され、二人は席を立って彼の後へ続く。そのまま部屋を出ようとした今居は、ふと振り返って会議室へ戻った。
今居が向かった先は、演台。彼はぽつんと取り残されていた鉱石図鑑を手にすると、元あった棚の空間へ丁寧に戻した。
「『普通』だからな、お前も」
誰に言うともなく呟き、今居は本の背をそっと撫でて会議室を後にする。
それを眺めていた犬吠と加古川は、一瞬顔を見合わせる。ある者は微笑み、ある物は同情的だった。しかし、駆けてきた今居を迎える二人は、どちらも優しく穏やかだった。
棚出し班は当然というべきか、一〇一では最もスタッフ数の多い部署だそうだ。班の中でも個人のカテゴリーごとにいくつかチームが分かれ、それぞれ受け持った分類の本を加工班から受け取り、棚に出していくシステムになっているらしい。
しばらく見ているだけでも、何人ものスタッフが営業の始まった店内と加工窓口を忙しなく行ったり来たりしている。店を辞めてから当分新古書店の仕事をしていない今居は、体が現場の空気につい反応する。今すぐにでも彼らに加わりたくなった。
しばらく何かを探すようだった犬吠は、やがて一人を手招きした。
「棚出し班のリーダーを紹介する。おい、頼む」
「はあい」
高く、甘ったるい声が聞こえた。人影はゆっくりと、優雅ささえ感じる足取りでやってくる。今居と加古川は現れた『リーダー』を黙って上から下まで眺めた。
―― ボボンキュッボン……。
女性のスタイルへ露骨に効果音をつけた今居をどうか責めないでほしい。これは健全な若者として仕方がない反応だ。
同時に、同じ女性である加古川には何故それをしない、という残酷な指摘はしないでやってもらいたい。人の魅力は十人十色である。
「棚出し班リーダーの武田です。カテゴリーは東洋魔術。実家は神社なんだけど、色々と巫女職向きじゃないって追い出されちゃったの。よろしくねえ」
細い銀縁の眼鏡を押し上げた武田は、柔らかく微笑む。憂いを帯びた眼差し、迂闊に直視できない豊満なスタイル。確かにこんな妖艶な巫女は、大人の漫画の中にしかいないだろうし、男なら一目で早々に神様のことなど忘れてしまいそうだ。落ち着かない思いでいる今居の隣で、加古川は武田の『女』に圧倒されてしまったようだ。ぽかんと口を開けていた。
とりあえず挨拶だ。今居はぎこちなく頭を下げた。
「あ、よ、よろしくおねがいします。俺は今居 ――」
「今居君だよね、しみーちゃんから聞いてるう。よろしくね、カテゴリー普通くん」
武田は今居のIDを軽く指でつつき、思わせぶりに微笑んだ。
『しみーちゃん』とは、恐らく伏見店長のことだろう。武田はあまり年齢や肩書を気にする性格ではないようだ。それにしても、今日はどうして誰も名前まで言わせてくれないのだろうか。もう一度改めて名乗るべきだろうか。考え込む今居を見、武田は手を口に当てて顔を寄せてきた。
「……今居君、ジェラってる?」
「は?」
「店長のこと、しみーちゃんとか言ったから」
「な、なんのことですか」
質問の意図がわからない。戸惑う今居を見て、武田は突然我が身を掻き抱いてジタバタし始めた。
「そうだよね? そうなんだよね⁉ ヒューウ! 今居君ってしみーちゃんに『もう離さへんで……ボクの世界へおいで今居君……ええ子やね……』って言われたから『店長……もう俺を離さないで……!』ってついてきたんでしょ⁉ うっふぉ! 主従カプ万歳! ケダモノ上司と忠犬わんこ属性最高! 種族や障害を超えた愛! ノンストップ幻想ラブファンタジー! 薄い本くださいむしろ私が描く! どっちが右でも私は認めるシミイマシミでリバリバオッケーイ! 実在名称は伏せるからコミカライズ許可ちょうだいお願ーい!」
―― そっちの人か……っ。
今居は拳を握りしめ、絶望と共に天を仰いだ。武田という女は、つまり、そういう人なのだ。とめどなく溢れる想像力の赴くままに、特定の愛の形を愛でる方向の人物なのだ。今居は関係各所に配慮した表現で結論を出す。
そう、ブクワン時代にも、夏と冬に向け落ち着きなくなるスタッフが何人もいた。その類の本も山ほど並べたからわかる。人の趣味にケチをつける気も見た目で差別する気も毛頭ないが、その美貌で、実に残念だ。残念過ぎる。今居は大きく首を振った。
「カプNGです。というか、後にも先にもそんな事実はありません。根拠のない、考えたくないですが仮にあったとしても、許可なくナマモノ身内ネタをまき散らすのはマナー違反ですよ。むしろハラスメントです」
「ぎゃー! やっぱりだめかー! でもでも、話の通じる子だねキミ……しみーちゃんオンリー本は許可貰ったから今度売り子手伝ってえ」
「想像するだけで地獄なので遠慮します」
よく許可したなあの人、絶対面白がってるだろ。頭を抱える今居は、ふと先程から沈黙している加古川を思い出す。こんな話についていける自分ドン引かれてる? 今居が顔を引き攣らせつつゆっくり振り返ると、彼女はまるで理解できない異次元の言語を聞いたような空気を漂わせ、立ち尽くしていた。
「しみいましみ……?」
「忘れて」
「りばりば?」
「忘れよう、カコさん。全て悪い夢だよ」
「ナマモノってなんだ?食い物の話か」
「犬吠さんも忘れましょう」
右に左に首を傾げる加古川と犬吠をかわすため、今居は話を逸らすことにした。こんな話題を深堀りされたら厄介だ。特に加古川は、知らない方が幸せな世界がある。
「カコさん、自己紹介したら」
「あ、加古川です! よろしくお願いします!」
「ああ……あなたが」
今までの騒がしさとはうって変わって、武田と加古川の間に静寂が満ちた。武田は眼鏡の奥の目を細め、やがて控え目に微笑んだ。
「ようこそ、一〇一書房へ。どんなことでもわからないことは、いつでも聞いてちょうだい」
「ありがとうございます」
加古川は丁寧にお辞儀する。穏やかではあるが、どこか気を遣うような空気。新人の加古川に何かあるのだろうか。今居は怪訝な顔をする。
その様子を見ていた犬吠は、武田に声をかけた。
「武田、後は頼めるか」
「大丈夫です。後で報告に参ります」
「それじゃ俺は店長室に戻る。今居と加古川は初日だからあんま飛ばすなよ」
「ありがとうございました」
二人で頭を下げ、犬吠を見送る。初対面ではどうなることかと思ったが、思ったよりスタッフを気遣ってくれる男だと思う。今居が親しみを覚えていると、武田がぽつりと呟いた。
「店長室でしみーちゃんとぬーぼーくんの二人きり……何が起きるのかしら……心が躍るわ」
「何も起きません」
しかし、この美しき妄想族リーダーとの相互理解は遠そうだ。
一〇一書房の店長室は、リーダー以外のスタッフが足を踏み入れることのできない空間に存在する。
全て屋内だというのに店長室までは砂利と石畳が敷かれてあり、空まである。今は頭上を満天の星空がゆるりと巡り、右手には竹林、左手には枯山水の庭園が広がっている。
しかしその景色は店長 ―― 伏見の気まぐれで毎日のように変わり、前日は桜が咲いていたのに、次の日には紅葉が錦を広げていることもよくある。落ち着かないので季節くらいは現実世界と同期させてほしい。
しばらく歩くうち、目の前に現れるのは一〇一の菱形紋が入った杉板の襖。犬吠は靴を蹴るように脱ぎ捨てると、声も掛けずに襖を開けた。
「模様替えは好きにしていいが、和室はやめろ。靴脱ぐのが面倒くせえ」
「ええー、畳ええやんかあ、ごろごろできるしい。問題はおやつがない事やな!青汁苦いわあ、くすんくすん」
伏見がわざとらしい不満の声を上げた。何十畳もあるような畳敷きの大広間、そのど真ん中で。さらに言うと、だらしなく寝そべり、腕を枕に片手で本を持ちながら。そして何故か青汁をちびちびやりつつ。付け加えれば、少し前に「ボク忙しい」と言って退場した後で。
よくもまあ今居はこの通り一時が万事、思いつくままの適当な男に、こんなとんでもない店までついてきたものだと思う。犬吠は仕事用の文机の前に胡座をかいた。
「どうだった」
「え、このたけぽよ……武田ちゃんの個人誌?ヤバイな!ボクオンリー本なんやて、めちゃくちゃオットコマエに書いてくれるんは嬉しいねんけど、ボクこな鬼畜腹黒ヤリヤリキャラに見えるう?なあ、ぬーぼー知っとった?たけぽよて結構いい席に座れる絵描きさんなんやて、わかるわーこれは男でも」
「本部への報告のことだっつの。御大なんつってた?」
「んー、まあなんやかやとな」
伏見は頭をかきつつのんびり起き上がる。細めの柔らかそうな髪には寝癖がついていた。
「鞍馬のボンが今回のテスト採用のことでヤイヤイうるさいらしいわ。早よ結果出してあの天狗黙らせえ、言うてた」
「鞍馬は先月から遠野支店任されて忙しいってのによくやるよ。お前にライバル心剥き出しの親父さんにつつかれてんのかね」
「かもなあ、カラスだけに……てやかましわ!」
伏見は自分でつっこんでへらへら笑う。しかしその目は笑ってない、ように見える。長年の付き合いから培った勘でそう感じる。細い目というのは表情がわかり難い。犬吠は溜息をつく。
「どやった?」
漠然とした伏見からの問い掛け。しかし犬吠は慣れたように言葉を返した。
「今居は順応性が高いな。異常事態に直面しても、驚きはするがすぐ己の尺で理解して腹に収める。異能に対する恐怖も嫌悪もあまり感じねえ、なんとかなりそうだな」
話している間に、犬吠の姿が変化していく。長い鼻先と頭上の耳は姿を消し、毛に覆われていた顔は少し陽に焼けた素肌へと変貌する。後ろへ撫で付けた少し襟足の長いブルーグレーの髪だけが、狼だった時の姿を残していた。
「まさかぬーぼーがケモ型で来るとは思わんかったて! ジブンのそれ満月関係あったっけ? アレ聞いて吹きそうになったわ。設定古っ、昭和か! おもろ!」
「いい加減血も薄まりきってんのに、いちいち満月で狼になってたまるかよ。っつーか、今日満月かどうかも知らね」
「ほなドッキリ? マイマイビビっとったやん、サービス満点やね」
「……ビビって帰っちまえばいいと思ったんだよ」
立てた膝に頬杖をつき、犬吠は眉を寄せる。
「俺ぁずっと言ってる。この人事、ブラック通り越してんだろ。ここはまともな人間の来るとこじゃねえよ」
「そやろか」
「人の法も常識も通用しない完全アウェーだぞ、スタッフには歴史的に人との因縁があって、過剰に敵視する奴もいる。『その他』カテゴリーの奴らでさえ、純血派と度々揉めてんだぞ。能力者スタッフの中には今居を実験動物だの生贄だの言うような奴もいる。放っといたらヤバイんじゃねえのか」
「あらあら、お口悪い子達やねえ。でもまあ、そらしゃあないわ、現にマイマイは本部で『無能採用』て名付けられてもうたしな」
「『無能』のレッテルを認めんのかよ」
伏見はここで初めて犬吠を見つめてきた。にわかに強い霊圧を感じる、息をするのも苦労するほど。しかし犬吠は気圧されない。髪の一筋も震わせず、金色の瞳を決して逸らしたりしなかった。
「ボクが認めるんは、己の目と尺だけや」
「伏見」
「こっちはとうに覚悟したで。犬吠、お前もジブンの目で見てハラ決めえ」
伏見の言葉を信じるなら、今居には異能持ちと渡り合える何かがあるのだろう。しかし犬吠にとって、今居はどこにでもいるただの人間にしか見えない。同時に、今居の様子からして、伏見が認めるような才を本人が自覚しているとは考え難い。
―― やらせてみなきゃわからねえな。
犬吠は顔をしかめ、低く唸った。
「スタッフは能力の有無高低問わず、全員公平同列。これが俺の尺だ。就業規則に触れない限り、一切庇わねえからな」
「それでこそ犬吠副店長やでえ、むしろ誰より厳しく頼むわ。今後マイマイは人間扱いせんでええよ」
朗らかないい笑顔で、恐ろしい事を言ってくれる。今居への同情心が更に増した。あの時逃げ帰っていたら幸せだっただろうに。犬吠は大きな溜息をつく。
「カコちゃんは?」
いつの間に飲んだのか、伏見は空になった青汁のペットボトルで膝を叩きながら訪ねる。加古川か。犬吠は長い髪で多くを覆い隠している新人を思い返した。
「まあ、今のところ人畜無害だな。今居が一〇一のことで片っ端からワタワタしてるから、肩の力抜けてんだろ。お互いなんだかんだ面倒見いいしな、フォローし合ってやってけるんじゃねえか」
「そかそか、仲良うなってええこっちゃ。ボクの神采配を称えてやあ……あ、待って! どないしよ、あの二人が付き合うて結婚してもうたら! ボク男泣きしてまうかもしれん、ややあ!」
「ありえねえよ。仕事しろ」
これ以上の雑談に付き合わないと言わんばかりに吐き捨て、犬吠はノートパソコンを開いて作業を始める。伏見は、おもんない奴やなあ、と口をとがらせていたものの、渋々席に戻った。
何もない空間に手を滑らせれば、店内の様子が映し出される。現れたのは、今居と加古川。今は武田の説明を聞いているようだ、二人とも真剣な面持ちでしきりに頷いている。伏見は頬杖をつき、曖昧な笑みを浮かべた。
「風は吹くやろか」
ぽつりと呟いた伏見を、犬吠はそっと窺う。しかし何も言わず、彼はキーボードを叩き始めた。
薄く開いた障子戸の向こう、星がひとつ、流れた。
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