神はサイコロを振らない

涼風紫音

第1話 神の思召すままに

 今日は2025年5月上旬の金曜日。つまりこれを読んでいるとすればこれは5か月前の出来事ということになる。それもすぐ読んでいればの話だ。

 いまこの店には俺と大学生アルバイト北山心春こはるしかいない。寂れた喫茶店「すのうどろっぷ」は、今日も客は一人だけ。いつものことだ。

 常連といえば売れない作家がいるくらいで、繁華街からも外れたこの店は居抜き物件。前の店も集客に苦しんで潰れたらしいが詳しいことは知らない。

 カウンター8席、テーブルが3つ。20席も用意したのがばかばかしいくらいだが、世を忍ぶ仮の姿を保つには客は少ないくらいでちょうどいい。幸い生活にこまらない程度には蓄えがある。一生このままやっていくことだってできるだろう。


「矢上さん。今日もお客さん、一人だけでしたね。大丈夫なんですか?」


 去年の夏、大学が暇になったからという理由で応募してきたたった一人のアルバイト。それがいま俺の横で客用にも関わらず埃を被りそうになっている皿を洗っている北山心春だ。

 背は低く150センチちょっとだろうか。俺の鍛えられた胸板の位置の高さにある小さな顔と小さな頭。控え目な髪留めでサイドにまとめられた薄めのピンクブラウンに染めたミディアムボブは、自分の容姿にもっとも似合う髪型をわかっている人間が選んだ最良の髪型と髪色。惚れる男はいくらでもいるに違いない。

 こんな小さな頭でも勉強は得意らしく、神居大学経済学部経済学科に進学して成績も優秀らしい。そろそろ卒業論文とやらを考え始める時期だろうに、今日もほとんど客が来ることのないこの店にアルバイトで精を出していた。


「お店、潰れません? 私は楽にバイト代が貰えるから助かりますけど」


 そう言ってけらけらと笑顔を振りまく。40歳も超えた俺でさえその魅力は十分伝わってくる。容姿も良く地頭も良い。それに親は老舗の海鮮問屋を経営しているとあって、いわゆる神居市では地元に根付いた良家といって差し支えない家柄。それにも関わらず、恋人も作らずこんなところでアルバイトをしているのは何の因果なのだろうか。


「高校の時、サッカー部のエースと付き合ってたんですけどね。脳筋男は駄目ですね。ちょっとモテるとすぐ勘違いするし。あと、なんか同年代の男って子ども過ぎるんですよ」


 聞いてもいないのにそんな話をしてきたのは1か月前のこと。大学を卒業したら親のところで働くのかと聞いて返ってきた答え。俺に気があるような素振りは悪い気はしなかったが、生憎と俺は釣り合うような存在じゃない。素性を知ったら親は反対どころか失神しかねないだろう。


「もう19時か。北山さん、表の看板を閉店にしてきてくれるかな。新しいまかないを用意するから、そのあとレジ締めもよろしくな」

「レジ締めって、今日の売上、コーヒー一杯500円だけですよ?」


 そんな一言が嫌味にもならないのは、彼女が素直で明るく社交的な性格ゆえなのだろう。俺の生きてきた世界とは違う、平和な国の恵まれた良家で愛情を注がれて育ってきた少女。羨ましいとは思わないが、人生の違いを感じることはしばしばある。


 一通り閉店業務を終えてカウンターの真ん中にちょこんと座ってまかないを待つ少女の前に、彼女お気に入りの甘めのカフェオレとホットサンドを出す。


「このサンドイッチ、珍しいですね? 何が挟まっているんですか?」

「サバのフライだよ。バルック・エクメーイというトルコ料理だよ。本当はコーヒー、特にトルコ・コーヒーとよく合うんだけどね。北山さんコーヒー苦手だから」


 サバに多く含まれるDHAは脳の働きにも良いらしい。そんなまで考えていたわけではないが、結果としてまかないメニューの選び方が少女へのちょっとした情を感じざるを得ない。いや、きっと誰かが作為的にそうなるように仕組んだのだろう。これを書いているやつのことだ。


 サバは鮮度が落ちるのが早い欠点はあるが、市場で仕入れてすぐのそれは脂も乗ってて抜群の風味が魅力だ。

 揚げたてのサバフライが熱すぎたのか、時折ふーふーと冷ましながらも熱心にバルック・エクメーイを頬張る少女の顔は、すっかり好みのカレーに目を輝かせる子どものようで、童心に返った瞳が輝いている。

 そしてそれをあっという間に食べつくしていた。三つも用意したのに。油も衣も最高品質、パンも専門店で特注で作らせているのだから、サバの鮮度さえ気を付ければ味には自信があったとはいえ、よほど気に入ったのだろう。


「もっと宣伝したらどうですか?」


 こんな外れた場所で、しかもトルコ料理を出す喫茶店など宣伝したところで物珍しいと思った客が一回来るかどうかくらいで大して効果はないだろう。そして俺はこの店を繁盛させたくなかった。閑散としているからこそ、目立たずひっそりと生きていくことができる。俺にはお似合いの生き方だ。


「こんなに美味しいのに、勿体ない。いっそトルコ料理屋にでもしちゃったら良いのに。人気出ますよ?」


 冗談とも本気ともつかない言葉で満面の笑顔。そして北山が所属する大学のサークル、料理研究会「Stella Kitchen」が今度地元テレビ局の取材を受けるのだと、楽しそうに話す。どうせ親がスポンサーにでもついているのだろうと思うと興醒めだが、そんなことを言ってその笑顔を台無しにするほど大人げないことをするつもりもなかった。何故かって? それはこいつを書いているやつがそうしたかったからだ。


 そんなことを思っている/思わされている間に、不意にガタンと大きな物音がして、彼女は思わず手にしていたマグカップを手放して落としそうになる。

 俺は反射的に手を伸ばし、掌で軽く受け止めて放り上げる。小さな放物線を描いて落ちてきたマグカップの持ち手に人差し指を入て落下を防ぐと、それは指を軸にクルクルと回って残り僅かなカフェオレがシンクに流れていった。


「矢上さん、時々人間技じゃない動きしますよね」


 呆気に取られた表情の北山心春が、大いに関心した顔で顔を赤らめる。二十歳も歳が離れた人間に見せるものではないし、俺としても困る。困るのだが、そうせざるを得なかったのだから仕方ないだろ。胸中の無言の抗議はあっさりと無視された。要らないところで鍛え抜かれた動きを見せるのは本意ではないのだが。


 そしてこの物音が何かの予兆であることを、俺は知らなった。何故ならこの時点では知らないということになっているからだ。

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