第一幕 飛龍と颯懍

 朝。目覚めて、隣に君がいないのが何よりの苦痛だった。

 それでも陽は昇り、新たな一日が始まる。


 東の果ての小さな村。

 飛龍は、その片隅で小さな饅頭まんとう屋を営んでいる。

 夜の残り香を拭うように湯気が立ちのぼり、通りは甘い香りで満ちていた。


「兄ちゃんの饅頭は、世界一だ!」

 湯気の向こうで、子どもが胸を張った。

 飛龍は思わず吹き出し、捏ねていた生地の粉が舞う。

「だろう? この火加減がいいんだよ」

 得意げに言う飛龍に、向かいの店の女たちが笑った。

「まあ、饅頭以外はひどい味だけどね」

「この前の粥なんて、犬も逃げたわよ」

「うるさい、俺の粥は趣深いんだ」

 飛龍がべ、と舌を出すと店の中には笑いが起こった。

 緩やかな空気。

 飢えに苦しんでいたこの村にも、いつの間にか笑顔が戻っていた。

 通りを見渡す飛龍の口元が、ふと柔らかく綻ぶ。

 彼は、このささやかな平和が続くことを、心から願っていた。

 子供たちの笑顔を眺め、僅かに目を細める。

 そんな束の間、他愛もない掛け合いが一段落し、女たちは声をひそめた。

「ねえ聞いた? 山の方で“月性”を見たって」

「嫌だわ、疫病神じゃない」

「あそこの奥さんなんて、旦那を月性に取られたって泣き腫らしていたわ」

 背中に、冷たいものが伝う感触があった。生地を捏ねる手が、ぴたりと止まる。

「噂じゃ……まだ“李飛龍”が生きてるんですって」

「あっ……あんたのことじゃないよ! 同じ名前なんて可哀そうにねぇ。あんたはこんなに優しいのに」


 月性――甘い色香で人を惑わす存在。

 かつて最強と謳われた李家を破滅に追いやった、忌まわしい性。


「ねえ、飛龍。あんたもそんな綺麗な顔してるんだから、気をつけなきゃダメよ」

「そうよ、いい加減、どこかのお嬢さんにでも婿入りして、身を固めなさい」

 いつも通りのお節介。

 飛龍は震える手を誤魔化すように笑った。

「悪いな。俺はもうとっくに心に決めてる奴がいるからさ」

 発した声は、自分でも驚くほど穏やかだ。

 飛龍の軽口で、店には再び活気が戻る。

 子どもが笑い、湯気が立ちのぼる。

 この瞬間が永遠に続けば良いのに──そう願わずにはいられなかった。



 日も落ちかけた頃。 

 店仕舞いを終えた飛龍は、ふと常連の娘が熱を出していることを思い出す。聞くところによると、丸三日間、症状はちっともよくならないらしい。この時期は、解熱や鎮痛に作用する草花がよく採れる。

「薬草でも取りに行くか」

 飛龍は湯呑みを置いた。ちゃぷりと音を立て、苦い匂いが充満する。

 毎日のように飲んでいるそれは、当然水ではない。飛龍のある症状を抑えることに特化した薬草を煎じて飲み続けているのだ。

 青臭い匂いに交じってほのかに甘い匂いが立ち込める。不味くて湯呑ごと投げ出してしまいたいのに、飛龍が普通に生きていくためには欠かせない。

「ついでに”あれ”も取っておくか」

 飛龍は外套を羽織り、ふらりと山へ向かった。



 山の入り口には、暗い霧が漂っていた。

 昼間は子どもたちの笑い声が響く丘も、夜になると人の気配が消える。

 踏みしめた土はしっとりと湿り、薬草の葉が露を抱えて青い匂いを放っていた。

「まだ採れるはずだ……」

 飛龍は腰の籠を下ろし、しゃがみ込む。

 石ころを丁寧に避けながら、指先で草を撫でる。

 冷たい風が頬をなぞったその時、背後で枝が折れる音がした。

「誰だ?」

 返事はない。

 だが霧の向こうで、何かがこちらを見ている気配だけがした。

 再び獣の遠吠えが聞こえ、風がざわめき出す。

 鳥かもしれない、そう思って歩き出そうとした瞬間、腕をつかまれた。

 その力は強く、粗末な革手袋の感触がした。

 森に迷い込んだ旅人を襲う賊かもしれない。

「放せ。俺はただの――」

「"月性"の匂いだな」

 低い声が耳を打ち、どくりと激しく胸が鼓動する。

 はっとして抑えた項には、確かに熱はない。

 その手を振り払っても、霧の奥から、もう一人の影が現れる。彼らは慌てて駆け出した飛龍の衣を捕まえ、地べたに押し付けた。乾いた草が音を立て、男の手がふくらはぎを越える。まとわりつくように足首を掴まれれば、大きさの合わない靴が、音を立てて地面に落ちた。

 裸になった足の裏に、男たちの視線が吸い寄せられる。

「あ……っ」

 顔が一気に熱くなり、かさついた手に心臓を鷲掴みされたようだった。

「まさか……この半月の焼印……。お前、李飛龍か」

「もし本物なら、黎家に突き出せば大金だぞ!あの裏切りの大罪人を!」

 気道がぎゅうと狭まっていく。

 心臓は煩いほど高鳴っているのに、血が身体を巡っている気がしない。

 掴まれた足から冷たさが這い上がってくる。

 あの焼印───裏切り者として刻まれた屈辱の証が足裏に刻まれているのを思い出す。

 逃げなくてはと思ったが、足がすくんだ。

 籠が転がり、薬草が散る。

 独特な甘い匂いが拡がる中、男の手が肩を押しつけてきた。

 ぬかるんだ地面に腰を打ち付ける。

 口から空気が漏れ、ぶわりと汗との匂いが広がった。

 痛みよりも悔しさが先にきた。 噛み締めた唇から鉄の味がする。

 それでも、抗おうと拳を握る。震えたままでそれを振り上げようとした。

 その瞬間――その場の空気が変わった。


「その手を離せ」


 低く、しかし透き通った声が霧を裂いた。

 風が走り、金の光がかすかに揺れる。

 男たちが一歩退いたのが分かった。

 飛龍は目を見開く。

 あの髪、あの瞳。

 ありえないと思った。

 けれど、声は確かに記憶の中と同じだった。

「"颯懍ソンリェン"……なのか?」

 温かい風が二人の間を通り抜けた。

 彼も同じように目を見開いている。

「飛龍、様……?」

 言葉を言い終えるより先に、彼は何かに引き寄せられたかのように、ゆっくりとこちらに歩み寄る。

 その足が一歩近づく事に、飛龍の胸がじくりと痛んだ。

 手が震え、足が動かない。

「ずっと探しておりました……もう二度と会えないのかと」

 その手が伸ばされ、飛龍のそれをぎゅっと包み込む。絡まる指から伝わる熱が、身も心もどろどろにとかしてしまうようだった。

「誰だお前!こいつは俺が先に見つけたんだ」

「お前たちこそ、誰の許可を得てこの方にこんなことをしている」

「偉そうに言いやがって! 誰だお前は」

藍颯懍ラン・ソンリェン

 一拍置いて、さっと賊たちが顔色を失った。

「藍、颯懍……まさかお前、あの藍家の新当主なのか!?」

 颯懍は何も言わなかった。

 かつての文官として書を抱えていた青年が、今は立派な袍をまとい、腰に上等な剣を佩いている。

「新当主……? 嘘だろ」

 喉から漏れた声は掠れていた。

 冗談だと言ってほしかった。

 だが、颯懍の肩にかかる紋章入りの外套が、全てを物語っていた。

「本当に、藍家の当主になったのか?」

 颯懍は少しだけ笑った。

 けれど、その笑みには苦味が混ざっている。

「家督を継いだのは、探したい人がいたからです」

 その言葉の意味を理解するより先に、目頭が熱を持つ。

 飛龍は慌てて顔を逸らそうとしたが、もう遅かった。

 次の瞬間、颯懍の腕が背を包み込んでいた。

 強くも優しくもない、ただ飛龍の呼吸を確かめるような抱擁だった。

 土と風の匂い。そこに混じる颯懍の匂いは懐かしくて、二人の呼吸だけが静かに重なる。

 指先が背中に触れただけで、冷え切っていた身体が少しずつ温まっていくみたいだ。

「……生きていて、くださったんですね」

 耳元で聞こえた声は震えていた。

 飛龍は答えられず、ただ頷いた。

 腕の中の温もりが、夢ではないと知るたびに胸が高鳴る。

「それはこっちの台詞だ……!」

 熱のこもった声に、颯懍は小さく息を吐いた。

「随分前に誓いましたから。貴方をずっと守り続けると」

 飛龍は息をのむ。

 まるで時が止まったみたいだった。

 過去の声が胸の奥で重なった。まだ少しだけ高かった、彼の凛とした声。

 忘れたと思っていた記憶が、木々が枝葉をつけるようにゆっくりと息を吹き返す。

「遅くなり申し訳ございませんでした」

 風が止み、霧が晴れ、木々の間から朝の光が差し込む。

 颯懍の黄金の髪が光を受けて揺れ、飛龍の頬に影を落とした。

 月光がふたりを包み、まるで世界に二人だけが取り残されたかのようだ。


 運命に焼かれた二つの魂が、再び出会う。

 それは偶然ではなく、導かれた再会だった。

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