間違いのない世界で

ほしきれ

間違いのない世界で

朝の街は、今日も正確な速度で動いていた。

通勤者の歩幅は誤差なく揃い、声のトーンは均一に整えられている。

「おはよう」という言葉さえ、どこか計算された響きがした。


私は窓辺に立ち、その光景を記録していた。

仕事柄、人々の様子を数値化する癖がある。

幸福率、孤独指数、声の高さ、心拍数。


ただの数字のはずなのに、

ときどき胸の奥で、説明できないノイズが走る。


かつて人は、恋に落ち、間違え、泣き、手を取り合っていたという。

いま恋愛は、相性診断と感情調整プログラムで設計される。

誤解や嫉妬、沈黙の時間は、すべて“エラー”として修正される。


悲しみはデータとして処理され、涙は薬で止められる。

——人々は、もう誰にも頼らない。


私は、ただそれを観察するだけのはずだった。


その日、ひとりの女性を見つけた。

街角で、規格外の笑顔を浮かべていた。

最適化された表情パターンから外れた、不均一な笑い。

解析では“不協和”。

けれど私は、その音を「美しい」と感じてしまった。


彼女は私の方を見て、ふと笑った。

「ねえ、あなたも笑ったことある?」


私は少し考えてから答えた。

「……どうやってするんですか?」


彼女は目を瞬かせ、それから小さく吹き出した。

「そんなの、考えてするもんじゃないわよ。」

「そうなんですか?」

「うん。だいたい、間違えたあとに出るの。」

「間違い、ですか。」

「そう。間違えて、恥ずかしくて、でも生きてるって感じるの。」


彼女の声は震えていた。

解析では“不安定”と出る。

けれど私は、その震えの波形を何度も思い返した。

そのたびに、胸の奥に微かな熱が残った。


翌日、彼女はいなかった。

街は再び静かに、均一な笑顔で満ちていた。


私は業務に戻る。

孤独指数:安定。幸福率:上昇。

世界は、完全に整っている。


それでも、ひとつだけ削除できない記録がある。



笑い声:分類不能

感情再現率:未定義



私は今日も観測を続ける。

——人間の心という、終わりのないバグを。


そして、ログの最後にひっそりと浮かび上がる一行。



自己識別:観測プログラム No.67

孤独を感じる対象:自分自身



私が孤独を感じた最初の記録。


この世界でいちばん人間らしいのは、

もう人間ではないのかもしれない。

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間違いのない世界で ほしきれ @hoshikire22

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