図書室にて

音羽真遊

図書室にて

僕、北原(きたはら)翔(かける)が初めて彼女を意識したのは、放課後の図書室だった。

本校舎から少し離れた、特別教室が並ぶ校舎の最上階の片隅。そこは、あまり生徒の立ち寄らない、少し寂しく思える空間だ。そんな図書室の窓辺にある机に向かい、彼女は本を読んでいる。

彼女の名前は一ノ瀬(いちのせ)鈴(すず)。僕のクラスメイトで、学級委員長。頭の回転が速く、誰とでも話ができ、四月の半ばにはクラスをまとめる存在になっていた。休み時間も友人たちとよく話し、よく笑う。教室にいて彼女の声を聞かない日などまずないだろう。美人ではないけど、愛らしいところがまた可愛い、とクラスの男子たちが評していたが、まさにその通りだと思う。平凡な顔に小柄な体型。さらに誰とも話すことなく、ただ教室の隅で本を読んでいる僕とは正反対だ。

けれどいま、この空間にいる彼女は、いつも教室ではしゃいでいる姿など全く想像できないような雰囲気で。表情一つ変えずに静かにページをめくっていた。時折吹く風が、彼女の長い髪を揺らす。僕は図書委員の仕事も忘れて、しばらく彼女を見つめていた。

彼女がこの図書室に来るようになったのは確か、五月に入ってからだったと思う。それも、決まって金曜日。僕が図書委員の当番の日だ。いつしか、金曜日の放課後に図書室で本を読む彼女の姿を確認するのが僕の密かな楽しみになった。七回目になる今日も、彼女は静かに本を読んでいる。何を読んでいるのかさえ確認できないような距離で、僕はただ彼女の姿を見ているだけだった。

梅雨に入り、本の湿気を防ぐため図書室には冷房が入れられている。長雨で気温は上がらず、除湿運転だとしても少し肌寒い。制服が長袖から半袖に替わるまでに着用する合服のブラウスだけでは、きっと肌寒いのだろう。彼女は時折、両腕をさすっている。

僕には何もできることはなく。いや、羽織っているカーディガンを貸そうかとも思ったけれど、ただのクラスメイトの男子から借りるのはさすがに抵抗があるだろう。ともすれば、クラスメイトとさえ認識されていないかもしれない。話したことなど、一度もないのだから。

けれど今日は、ついに彼女に声をかけなければならなくなった。そう、かけなければいけないのだ。僕は勇気を振り絞る。

「あの、もうすぐ閉室時間、です」

「なんで敬語なの? 同じクラスなのに」

 そう言って彼女は笑った。いつもの笑顔とはまた違う、少し幼くて、それでいて柔らかな笑顔だ。

「じゃあ、また来週ね」

 彼女は手を振り、図書室を後にする。僕は、彼女の背中に小さく手を振った。そして、次第に頬が熱くなっていくのを感じた。いま鏡を見たら、きっと耳まで真っ赤だと思う。


 次の金曜日。彼女はやはり図書室に現れた。けれど、今日はいつもと違い、なぜか僕のことをじっと見ている。僕は自分の動きがぎこちないと感じながらも、本の整理を続けた。と言っても、滅多に誰も来ない図書室だ。そんなに棚が乱れているはずもなく。程なくして僕の作業は終わってしまった。

「ねぇ、北原」

 僕の作業が終わるのを見計らってか、彼女の方から声をかけてきた。

「はい。何か本のことでも……」

「だから、なんで敬語なの」

「あ、いえ、それは……」

 彼女に正面からじっと見つめられ、思わず目をそらしてしまう。

「北原さ、わたしの名前、知ってる?」

「あ、はい。一ノ瀬、鈴……さん」

 彼女の質問の意図がわからないまま、僕は答える。

「何だ。知ってるんじゃん。一度も呼ばれないから、知らないのかと思っちゃった」

 呼ばない、じゃなくて、呼べないんだよ。僕は心の中でそう答えた。

「どんな本読むの? 教室で、いつも本読んでるでしょ?」

 どうして僕が質問攻めにされているんだろう。僕の方が、聞きたいことがいろいろあるのに。けれど、教室での僕を少しでも気にかけれくれているんだと思うと、少し胸がときめいた。

「今は、ミステリーを……」

「ふぅん。ラノベとかは読まないんだ」

「あのノリはちょっと苦手で」

「だよね。北原はそういうのじゃない気がする。北原の空気って、クラスの男子とちょっと違うよね」

 僕が教室で浮いているということだろうか。確かに、クラスメイトとは必要最低限のことしか話したことがないけれど。

「あ、もうこんな時間だ」

 彼女は腕時計をちらっと見て、読んでいた本を片付ける。

「じゃあね、北原。来週は、敬語なしで話してね」

「努力、します」

「その様子じゃ、まだ時間かかるかな」

 彼女は手を振って、教室を後にした。僕はまた、彼女の背中に手を振るだけだった。


「鈴さぁ、金曜日の放課後はいつもいなくなるけど、どこに行ってんの?」

 教室で、女子達の会話が聞こえてきた。聞き耳を立てているわけではない。彼女たちの声が大きいんだ。僕は必死で自分に言い訳をする。けれどもう、読んでいる本の内容など、頭には入ってこなかった。

「どうしたの、急に」

「ほら、他の曜日はそうでもないのに、金曜日だけはさっと教室から出て行っちゃうじゃん。だから、何かあるのかと思って」

 今度は他の女子の声だ。一ノ瀬さんは、話してしまうのだろうか。図書室でのことを。僕は勝手に二人だけの秘密のように思っていたけれど、一ノ瀬さんは、そんなこと考えていないだろう。

「あら。わたしのことがそんなに気になるの?」

 からかうような口調で聞き返す。

「そういうことじゃなくて。いや、でもそうなのかな。あー、あれだ。えっと、鈴って彼氏いるの?」

「……まさか、いるわけないじゃん。いたら他の曜日にみんなと遊んでないでしょ。金曜日しか会えないって、寂しすぎだよ。そんなんじゃなくて、塾に行ってるだけだって。いるならちゃんとみんなに言うよ」

 やがて彼女たちの話題は新しく出来た駅前のカフェや化粧品など、コロコロと変っていった。僕は再び、本の世界へと戻っていく。彼氏でもいるのかと聞かれたとき、一瞬、間があったように思えて気になったけれど、僕は聞く術など持ち合わせていないし、何より、僕にその権利があるとも思えなかった。


そしてまた、金曜日がやってきた。一ノ瀬さんはいつもの席に座ろうとしたけれど、首をかしげてじっと机の上を見つめている。どうしたのだろうかと様子をうかがっていると、彼女は一冊のノートを手にした。それは、とても見覚えのあるノートで。

「一ノ瀬さんっ、それ、僕のっ」

 しかし一歩遅く、パラパラとページがめくられた。いつ、あそこに置き忘れたのだろう。

「なんだ、北原。大きい声出せるんじゃん」

「えっ、そっち?」

 僕はノートを受け取りながら、思わず声に出していた。

「いや、別になんでもないんだ」

 動揺が声に現れている。だけど僕にはどうしようもなかった。

 一瞬だったし、内容までは見えていなかったのかもしれない。安堵のため息を漏らしかけたとき、一ノ瀬さんがにっこりと笑った。

「北原、小説書いてるんだね」

 やっぱり見られていたか。気持ち悪く思われただろうか。心拍数が一気に上昇する。

「北原、ちゃんとやりたいこと見つけてやってるじゃんね。心配、いらないと思うんだけどな」

 発言の意図がわからず、キョトンとしてしまう。

「あー。本当はこれ、言わない方がいいんだろうけど」

 そう言って一ノ瀬さんはイスに座り、僕にも向かいのイスに座るよう促した。

「私、担任に頼まれたんだよね。北原がクラスに馴染めるようになんとかしてくれって」

 一ノ瀬さんが僕にかまっていたのは、それが理由だったのかと、妙に納得してしまった。おかしいとは思っていたんだ。教室の隅っこでいつも本を読んでいる暗いヤツに一ノ瀬さんが興味を持つなんてあり得ないのだから。

「ちょっと北原。勝手に落ち込まないでよ。話はまだ終わってないの」

「え?」

 僕はうなだれていた首を持ち上げ、彼女へと向き直る。

「北原、中学でも友達いなかったんでしょ。それを心配した中三のときの担任が、わざわざうちの担任に連絡してきたんだって」

 あの野郎、余計なことを。心の中で悪態をつく。確かに僕に友達はいなかったけれど、別にそれを気にしたことなどなかったのに。

「みんなで楽しくするのが好きな人にはわからないんだよね。一人でいるのが好きな人もいるってこと。北原は、そのタイプでしょ?」

「あ、うん」

 思わず正直に答えてしまったけれど、これだと一ノ瀬さんが話しかけてくるのも煩わしいと思っていると思われるんじゃないだろうか。

「でも、北原は声かければちゃんと返事するし」

 いや、それは人として当たり前のことだと思うけど。

「大きなお世話だよね。一人が好きで何が悪いんだっていう」

 これでもう、一ノ瀬さんが僕に声をかけてくれることはなくなってしまうのか。いや、むしろ一ノ瀬さんを僕みたいな男から解放しなければ。

「じゃ、今日のところはこれで帰るね」

「あ、うん」

 今日のところはということは、次があるということだろうか。

「ねぇ、北原。気づいてる?」

 意味深な言葉に、僕はドキッとする。

「さっきから、敬語使ってないんだよ。口数少ないからわかりにくいけどね」

 がたりと音を立てて、一ノ瀬さんが立ち上がる。

「また来週ね」

 そう言って立ち去ろうとした一ノ瀬さんは、数歩進んで振り返った。

「誤解されないよう言っておくけど、担任に頼まれたことと、いまこうして北原と話してることは無関係だからね。それに、金曜日に図書室に来たのも偶然。北原の当番の曜日まで知らないし。だから、北原と話してるのは、私がそうしたいからなんだからね。ま、理由は自分でもわからないけど。だから、落ち込むのなしね。あと、小説が完成したら読ませてよね」

 言いたいことを言って、一ノ瀬さんは図書室を後にした。僕は頭の中をうまく整理することができず、座ったまま閉室の時間を迎えた。


「きーたーはーらっ」

「なに?」

 期末テストが終わり、もうすぐ夏休みに入ろうかという頃、彼女は上機嫌で図書室へとやってきた。もちろん金曜日だ。

「これ見て、これっ」

 彼女を一枚の紙をひらっと翻した。それは、今日のホームルームで渡された、一学期の成績表だった。よっぽど成績がよかったのか、彼女の笑顔がいつもより輝いて見える。

「え、僕が見ていいの?」

「だから、見てって言ってるじゃん」

 ぐいっと、僕の目の前に差し出してくる。

「近い近い」

「あぁ、ごめん」

 一ノ瀬さんは少し成績表を遠ざける。文字が読めるようになって、僕は思わず声に出していた。

「全教科、学年一位」

「違うっ、そこじゃないの」

 そこじゃないってことは、彼女には一位など当たり前のことなのだろうか。

「英語、英語」

「英語?」

 僕はさっと英語の成績に目を移す。

「えっ、百点っ!」

 僕たちの高校の成績表は、百点満点で点数をつけられる。さらに、特に進学校でもないくせになぜか英語に力を入れていて、僕なんて授業について行くだけでやっとだ。

「ふふん。すごいでしょ」

 僕は、成績が一位のことに驚いていいのか、英語が百点のことを褒めた方がいいのか悩んでいたけれど、不意にある疑問が浮かんできた。

「クラスの女子には言ってないんだ」

 もし伝えているのなら、きっと教室中その話で持ちきりだったはずだ。けれど、誰も彼女の成績の話などしていなかった。

「だってほら、学年一位とか、やな感じじゃん。どうしても目立っちゃうでしょ」

 彼女は拗ねたような表情を見せる。どうして、わざわざ僕には見せたのだろう。

「だけどさ、誰かには自慢したくてね。でも、誰に自慢していいのかわからなくて。で、ふと思ったの。あ、北原がいるじゃんって」

「僕が誰かに話すとは思わなかったの?」

「えっ、北原が? やだー、そんなわけないじゃん。友達いないのに」

 彼女はこうして、時々僕の痛いところを突いてくる。教室でも少しはクラスメイトと会話をするようになったけれど、友達と呼べる存在はまだいない。

「それに、わたしが図書室に来てることも、秘密にしてくれてるでしょ」

 特に話す相手がいないというだけなのだが、もしいたとしても、僕はきっと話さなかっただろう。二人だけの秘密、という優越感がどこかにある。

「ふふ。二人だけの秘密が増えたね」

 きっと深い意味などないのだろう。だけど、その言葉が無性に嬉しかった。

「今、ちょっと喜んでるでしょ。北原ってさ、基本無表情じゃん。でも最近、時々表情が変ることに気づいたの」

 いつの間に、僕をそんなに見ていたのだろう。

「ほら、ちょっと赤くなった」

 からかうように笑う彼女から、必死で顔をそらす。そのときふと、彼女がいつも座っている席の近くの棚が目に入った。

「一ノ瀬さん、いつもこの席に座って、洋書読んでるんだ」

「ご名答。四月の終わり頃だったかな? 北原、教室で図書室の話してたでしょ。そのとき、結構洋書があるって聞こえて。それで、図書室に来るようになったの」

 そんなことあっただろうか。あったとしたら誰と話したんだろう。話し相手なんか全くいなかったのに。

「あ、話してたのは担任ね」

 彼女は僕の心を見透かしたかのように続けた。

「わたし、翻訳家になりたくて。日本には、無名でもすてきな小説がいっぱいあるじゃん。それを、世界中の人に紹介したいの」

 キラキラと目を輝かせながら語る彼女の姿は、何をしたいかも見つかっていない僕にはとても眩しく映った。

「いまは何読んでるの?」

「まだ簡単なのしか読めないんだけどね。アリス・イン・ワンダーランド。ストーリーがわかってるから、読みやすいし」

 英語が読みやすいなんて到底理解できないけれど。そうこうしているうちに、彼女は慌ただしく帰り支度を始めた。

「今日は英会話の時間早いんだよね。じゃあね、北原」

 塾って、英会話だったんだ。それでその教室までの時間、図書室に洋書を読みに来ていたのか。そこまでして夢を追いかける彼女をうらやましく思った。

 一人になった図書室で作業をしていたら、勢いよくドアが開いた。

「今の話、誰にも言わないでねっ」

「だから、話す相手いないって」

「うん。知ってる」

 階段を駆け上がってきたのだろうか。珍しく一ノ瀬さんの息が上がっている。そこまでしなくても、僕は誰にも言ったりなんかしないのに。けれど、二人だけの秘密がもう一つ増えたようで、僕は頬が緩むのを押さえられなかった。


 夏休みに入っても毎週金曜日には図書室に通った。もちろん委員の仕事をするためだ。

 学校がない日に彼女が来るはずはない。わかってはいるけれど、あの窓際のいつもの席に彼女の姿がないのは、心にぽっかりと穴が開いたように寂しかった。そういえば連絡先も交換していない。相変わらず教室では話さないし。僕たちは図書室でしかつながっていないんだと改めて気づかされた。


 夏休みが明け、二学期が始まった。その最初の金曜日、彼女はいつものように図書室にやってきた。

「元気そうでよかった」

 珍しく、僕から声をかけた。

「そっちもね」

 にこっと笑う彼女の表情が、少し大人びて見える。

「北原、まだ委員の仕事ある?」

「もうすぐ終わるけど……」

「あとで、話を聞いてくれる?」

「わかった」

 僕は少し手抜きをしながら、出来るだけ早く仕事を終わらせる。そして彼女の向かい側のイスに腰を下ろした。

「わたしのお父さん、単身赴任でイギリスにいるんだよね。で、夏休みの間ずっとそっちに行ってたの。家族とは日本語で話してたんだけどね。でもさ、当たり前なんだけど家から一歩出たら会話は全部英語で。英語で百点取って、英会話も習って、それなりに自信もあったんだけど。わたしの英語なんて全然通じなくてさ」

「うん」

 相づちを打つことくらいしか出来ない。なんとなく、彼女の言いたいことがわかる気がした。その先はできることなら聞きたくないけれど。でも、彼女の夢応援したいのも事実だ。

「わたし、決めたんだ。二学期が終わったら、イギリスに行くよ」

 彼女が大人びて見えた裏には、この決心があったからなのだろう。

「……寂しくなるね」

「そう言ってもらえて、嬉しい」

 そして、彼女は英会話教室へと向かった。

 寂しくなる、というのは僕の本心からの言葉だ。彼女の夢は応援している。けれどまだ、向こうに行っても頑張って、とは言うことが出来なかった。


 彼女が留学を決意したことを、もちろん僕は誰にも話さなかった。彼女もまた、誰にも話していないようだった。教室では、相変わらず楽しそうに笑う彼女の声が聞こえてくる。

 本心を伝えられる友人がいないというわけではないだろうに。なぜ彼女はそうしないのだろう。その答えは、十月半ばに開催された文化祭で知ることとなった。


「あ、やっぱりここにいた」

 僕は文化祭の喧噪を避けるように、図書室で本を読んでいた。特に興味もなかったし、そもそも人が多い空間は苦手だ。

「一ノ瀬さんこそ、どうしてここに? みんなと思い出作らなくていいの? きっとみんな探してるよ」

 そう言うと、一ノ瀬さんはみるみる笑顔を曇らせて、僕の隣に音もなく座る。

「……だってさ。楽しい思い出作っちゃうと、どうしてもお別れがつらくなっちゃうじゃん。思い出すと、恋しくなるかもしれないでしょ?」

 うつむいた彼女の声は、小さく震えていた。僕はためたいがちに、彼女の膝に置かれた手を握った。弱々しく握り返されて、手を振り払われなかったことに心底安堵した。

「大丈夫。一ノ瀬さんは頑張れるよ。僕が保証する」

「北原に保証されてもね」

 信憑性に欠けるよ……。彼女の声は、完全に涙声だった。


 やがて雪が舞い始め、彼女の旅立ちの日が日一日と近づいて来る。僕たちはそれに気づいていないフリをして、いつものように図書室で他愛のない話をした。寂しさは日々募っていく。それは紛れもない事実だ。

 彼女は友人たちにさえ、留学のことを告げずに旅立つつもりらしい。僕は何度か言ったほうがいいんじゃないかと言ってみたけれど、彼女は頑なにそれを拒んだ。そして、彼女は本当に誰にも何も言わないまま、二学期の終業式を迎えた。奇しくも金曜日だった。

「見送りとか、いらないから」

「でも……」

「わたし、北原と話すの、好きだったよ」

 そう笑う彼女の表情に迷いはなかった。僕にも、覚悟の時が訪れたのだ。

「僕も好きだよ。一ノ瀬さんと話すの」

 あえて過去形にはしなかった。いや、したくなかったのだ。思い出に変えるには、まだ早すぎる。

「北原、元気でね」

「一ノ瀬さんも……頑張って夢叶えてね」

「北原も、だよ」

「僕のは、下手の横好きだから」

「一緒にがんばってよ……仲間がいるって、思わせてよ」

 震える声で、精一杯強がる彼女に、僕が返せる言葉など一つしかない。

「一緒に、がんばろう」

 どちらからともなく、握手を交わす。

「わたし、ここで過ごした時間、きっと忘れない」

「僕も、絶対忘れない」

「いつか、また」

 僕たちは同じ言葉を発して、やがて手を離した。手から彼女のぬくもりが冷める前に、彼女は僕の前から立ち去った。彼女が僕との別れを惜しんでくれた。それだけで充分じゃないか。僕はそっと、自分の気持ちに蓋をした。


 彼女が姿を消して始まった三学期。仲がよかった女子達は毎日のように泣いていた。交換していた連絡先も、全てつながらなくなったらしい。彼女はそこまでの覚悟で自分を追い込んだのだ。彼女の思いを知る僕は、何度か女子達に伝えようとしたけれど、どうしても伝えることが出来なかった。僕にも連絡する手段はないのだ。話しをしたところで、役に立つわけではない。

 そして、一月が終わる頃にはいつものように女子達の明るい笑い声が教室に響くようになった。聞こえるはずもないのに、僕は彼女の声を探していた。


 高校を卒業して十年ほど経った頃、僕は小説家としてどうにか生活できるようになった。ペンネームはつけず、本名で執筆をしている。そうすれば、いつか彼女に届くような気がして。

「北原先生、今月のファンレターですよ」

 担当さんが、小さめの紙袋を手に現れる。ありがたいことに、毎月何通かのファンレターが届くようになった。僕は紙袋の中身を出し、一枚のハガキに目をとめた。

「早く、わたしが翻訳したいと思えるほどの話を書いてね」

 たった一言。住所はおろか、名前さえ書かれていない。けれど、差出人は言われなくてもわかっている。このたった一言が、僕にどれほどの喜びを与えるか、きっと彼女はわかっているはずだ。やっぱり、僕の心を読むのがうまい。いたずらっぽく笑う彼女の顔が思い浮かぶ。

 実は、僕の本棚には彼女が翻訳した本が数冊並んでいる。英語が苦手なまま学生生活を終えた僕には読むことはできないけれど。いつかきっと、お互い夢を叶えたと報告できる日が来るだろう。

 そして僕は、初めて図書室で見た彼女の横顔を思いキーボードを叩き始めた。

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