第十六幕


1945年夏。葉子は齢8歳を迎えていた。この村で生きる少女にとって時代は過酷すぎた。




「■■■、見て。セミだね。」


たった一人の肉親、生まれて間もない弟は空を飛ぶセミにあやされていた。父は出征、母は出稼ぎに行っていたため、家事を行い家を守るのは自分の役目であることは理解していた。


目の前の幼い赤子の食べる物を作るのは自分の仕事の一つだ。学校へ帰ってきたら


畑の野菜を収穫し、配給を少しずつ使って弟と自分を養う。


戦争を始めた時に比べ、配給の量は間違いなく減少している。芋を追加してかさ増しするのは常だ。


空腹は水を飲んでしのぐことでやりくりする。


夜遅くに帰ってくる母のために晩御飯を作り、弟をあやす。多忙が故にその苦痛を感じる暇もない。夢を見ることさえも許されず、ただ次の日の予定を組み立てる。


それが葉子に与えられた猶予の中で考えることだった。




そんな生活の中でも葉子は懸命に生き延びた。時に川へ飛び込み、時に防空壕へ走り、その身を危険から守り続けた。たった一つの心の拠り所である弟とともに。


幼い彼の無垢な瞳は彼女を勇気づけた。サイレンで騒がしくなったときも、逃げ惑う人々の雑踏の中でも彼は一切泣かなかった。


そんな弟を守るため、葉子は希望を捨てなかった。




「お姉ちゃん、がんばるから、■■■も頑張って。」




しかし、そんな余裕を持てたのは春先までだった。初夏に入り、空襲の頻度が増加してきた。それに乗じ、葉子の生活はより苦しいものとなってきた。


開墾した土地は空襲と避難する者の足蹴にされ、生え始めていた苗は踏み潰され、燃やされた。


戦火はすでにこの村を包みこんでいた。




7月19日。


その日は曇が空を覆っていた。雨でも降りそうなほど暗い雲の層に葉子は困っていた。


「雨でも降るのかな。」




その一言を呟き終えるのとほぼ同時だった。一瞬、何が起こったのか分からなかった。家の軒先の縁に座っていた葉子は全身の熱を感じていた。それがナパームの燃焼であったことを理解したとき、視界は炎に包まれていた。




「ああ。」


今座っていた場所は燃え始め、黒く焦げ始める。倒れた体を匍匐前進で進む。全身を撫でた炎で燻る身の匂いも憚らず、腕を伸ばした。その先はもちろん弟だ。


自分の体がどうなってもいい、焼け焦げようが、この身が爛れようが、弟を救えるならそれでいい。


伸ばした指先に触れ馴染んだ小さな手の感触を感じた。間違いない、この手は弟のものだ。薄れる感覚の中、たしかに掴んだ『希望』。その感触に安堵する。


まぶたが焼け溶け、目は周りの熱気を直に感じる。その視線を指先に向ける。今すぐここから逃げなければ。まだ間に合うかもしれない。






「きゃああああああああ!!!!!!」


自分が掴んでいるものは腕だった。二の腕から上がない只の『腕』そのものだった。断面から見える薄い肉と小さい骨、煙を立てながらメラメラと燃える黄色の赤子服はその腕が弟のものであることを物語っていた。


その時、葉子は自分の足がないことに気付いた。立ち上がることもできず、抱きしめるものもなく、守るべきものも今目の間でいなくなった。


葉子は仰向けに天井を見上げる。燃える天井に腕を伸ばす。ボロボロの腕は掴むものはもうない。否、掴めない。焦げ付く身体の臭いに気分が悪い。しかし吐き出すものなど一つもない。


虚ろな瞳から垂れた一筋の涙はすぐさま蒸発した。たった一言、葉子は呟いた。




「どうして?どうして?」










首をもたげながら立ち上がる昭宣の姿に悠斗は構え直す。ゆらりゆらりと立ち上がる少年の目、男の目にはもう何も映っていなかった。


「その空を駆け抜けろ、雷の鳥は轟、光と共に唸れ。甕槌ミカヅチ!!!」




男の短剣は姿を変える。握られた柄は金色に輝き、その刃先は稲光如く輝いている。






「吉永昭宣、雷神の御言より貴様を討つ!!」


「本腰でいかないといけないようだな。」




二人の刀がぶつかり合う。激しい衝突音と火花が飛び散る。断頭台の黒剣と雷鳴の黄金剣、両者は一歩も引かず音速の殺陣を繰り出す。


黒い刀身が振り下ろされれば黄金の剣は横薙ぎにその攻撃を弾き返す。雷の如く振り払う剣を男は頭を下げ、その攻撃を躱し、反撃に移る。




「はぁぁぁぁ!!!!」


昭宣は両手持ちした剣を振り下ろす。悠斗はその大振りな攻撃を広報へ下がり回避する。空振った剣は昭宣の左脇を通って上空へ上がった。




「なにっ!?」




上空で回転を続ける剣に意識を持っていかれた。咄嗟に昭宣へ目を遣るもすでに遅かった。小柄な少年の蹴りが鳩尾にめり込んだ。


「ぐぇ!!!」




少年は落下する剣を受け止め、抜刀の構えを取る。怯んでいた男にその居合を交わす余裕はなかった。


音速を超えた雷電の抜刀、逆袈裟で放たれた一閃は男を斬り裂いた。




男は後ろへ吹き飛ばされた。胸からはどくどくと血が流れている。




「はぁはぁ。やった。やったよ、かあさん。」










少年の詠唱を聞いたとき、エマは全身が総毛立つ感覚を覚えた。


相対する少女の方から静電気のようにピリピリと刺激を受け取った。その刺激一本一本が殺意となって向かってくるには一秒もかからなかった。


葉子の握る短刀が徐々に姿を変えていく。刀身は伸び、柄を覆うように護拳が伸びる。




「開放か。ユートめ。やらかしたな。」




少女の上衣は鮮やかな黄色に染まり、淡い色の帯は濃い橙の帯となった。髪を結ぶリボンは黄色く、より大きな物となっていた。




「電気椅子、伊勢葉子。我が理想のため貴様を討つ。」


「断頭台、エミリー・ジャンソン。自らの意思を以て貴女を倒す。」




その名乗りからコンマ数秒後、二人の獲物が鍔迫り合いを起こしていた。エマの大型ナイフが葉子の首を狙い振り抜かれる。葉子は頭を上を向き、紙一重でその攻撃をかわす。


機敏な動きと共に振るわれる軍刀の連撃にエマは防戦を強いられる。


突きと振りを織り交ぜた連撃、明確にこちらの嫌なところを狙ってきている。紙一重で躱すも、徐々にその攻撃はエマの身を削っていった。




(やはり、射程の差が大きいな。こちらは一歩も近づけないようにうまく立ち回っているな。)




後ろから大きく振った軍刀がエマの鼻先を掠った。葉子は振り払った勢いそのままに回転する。地面を蹴り上げ、上空から一気に叩きつける。


ナイフに拒まれた刀身が押し込まれる。エマの膂力と葉子の一撃がせめぎあう。




「ぐぬぅぅ!!!」


「くっ」




葉子は自分の体に流れる血が沸騰しそうなほどの熱意が自らの攻撃のパワーへ変わっていくのを感じていた。


「わたしは、わたしは、彼の母にならなければ!!!」




「母に!?」




同時にエマは軍刀がさらに重みをもったような気がした。


「これが意志の力か・・!!」


ナイフを横向きにはじく。軍刀を支えていたものがなくなり、勢いづいた軍刀はエマの左肩に食い込む。




「はぁぁぁぁ!!!!」




軍刀を下へ叩きつける。命一杯の力で床へ降りぬく。


ボトリとエマの腕が落ちる。噴き出した血が床を塗りつぶす。




葉子は軍刀を鞘へ納める。そして目の前に倒れる宿敵を目の前にして膝から崩れた。


「やった。やっと守れたよ。■■■。私守れたよ。」




瞳から流れる一泪は血を吸ったイグサに染み込んでいった。


彼女はたった一つの護るべきものへ寄り沿う。彼も死闘の末、その全力を使い切ったのだろう。座り込む彼を後ろから抱きしめる。


震える彼の身体を包み込むように、疲れ切った彼を抱擁する。




「大丈夫。私がずっと守ってあげるから。」












「なぜだ!!なぜ貴様のような外様のものが!!」


あたりは血の海。そこには一人の青年が立っている。手には匕首、服は返り血で染まっている。


一人生き残っている男の太ももから血が流れている。しりもちをつき後ずさる男の姿に




「わかった。お前を本家の元に入れてやる。私からも補佐頭に立候補もする。だから命だけは!!!」




志郎は匕首を握る手に力を籠める。




「そんなものに興味はない。望むのはあんたらの死だけだ。」


匕首を逆手に構え、一気に振り下ろす。




「ぐぁぁあああ!!!」


男の胸に突き立てられた匕首は鮮血に染まり、心臓の拍動とともにピクリピクリと動く。




「どうして?お前が。その力を?」




言い残した男、吉永 浩正ひろまさは天井を虚空に向けていた。その濁った瞳は疑問と恐怖に染められていた。


二人の息子、久秀と秀勝が負けたこと、なぜ外側のあの少年がここにいるのか。




胸に突き刺さった匕首を引き抜く。赤く染まった刃先からぽたぽたと垂れる血を服で拭い、鞘へ納める。




「琴、終わったか?」


「ええ。もうこの家には彼らしかいないわ。」


「そうか。じゃあ手筈通りに。」




琴はうなずき、裾からマッチを取り出し、箱の側面で擦る。小さな棒先についた火を地面に落とす。


畳に落ちたマッチ棒はイグサを枯らし、燃料としその火を大きくした。徐々にその火は部屋中に延焼する。


死体の油脂が燃え、パチパチと音を出す。柱、障子と燃え、引火していく。そこには志郎と琴はいなかった。


ただ燃え尽きるのを待つ死体だけがそこにあった。

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