泡沫、夢ノ黄泉還
p.o.m.2
第一幕
『夢』について考えたことはあるだろうか。
ある人にとっては追いかけるもの。ある人には叶えるもの。しかし、それは俺にとっては追いかけられるものだ。
浮橋の上に立つ俺は呆然と立ち尽くしていた。
這い寄る黒い腕。吊り橋を渡ろうと前に出す脚は重い。
「■■■■■■■■■■‼‼‼‼」
声として認識できない叫びが後ろから響く。徐々に近づく腕が足に絡みつき、橋の底へ引きずる。真っ暗な川底に溺れそうになる。少しでも身体を水面から出そうと手を伸ばそうとも、そこがない川は体を完全に飲み込んだ。
伸ばした手が宙を掴んだ瞬間、その夢は突然現実と入れ替わった。寝汗が首筋を流れる。噴き出した汗が気持ち悪い。
夏。この時期になるといつもこの夢を見る。早くに昇った朝日がカーテンの隙間からこちらを差していた。
じりじりと照り付ける太陽。雲一つない青い空には白く輝く太陽が南中していた。晴樹はアスファルトの上の陽炎を追いかけバイクを走らせていた。YAMAHA MT-125の排気音が山道に轟く。
高校生活最後の夏休み。
「あ~もうクソッ‼」
ライダースーツの中もヘルメットの中もブーツの中も蒸れて仕方がない。
田舎の祖父の家を訪ねる。それだけが今日の目的だ。朝早くから走らせているがまだ道のりの半分を過ぎた程だ。
途中で早めの昼飯と給油をしたがそれ以外はほぼ走りっぱなしだ。さすがに体の節々が痛い。
「そういえば、ここらへんで人が行方不明になったんだっけな…。」
噂話を信じるようなタイプではないが、それを否定する根拠となるものも持っていない。晴樹は握るバイクのグリップを強くつかむことしかできなかった。聞いた噂の詳細を思い出そうとぼんやりとしていた。
そんなことを思いながらカーブでハンドルを切る。その瞬間、カーブの内側に一人の女性を見つけた。白い髪を靡かせ、死装束かと思うほどに真っ白な和服を着た女性だった。
突然、現れた姿にハンドルを切り損ねる。ブレーキを急に踏んだせいかバランスを崩した。制御を失った車体はアスファルトを滑りながら倒れていった。投げ飛ばされた晴樹の身体は錐揉み回転し地面に伏した。
ヘルメット越しにカーブの方に目をやる。しかしそこには誰もいなった。周りを見渡しても人影一つさえも見つけられない。
狐につままれた顔でぽつりとつぶやく。
「何が起こったんだ...?」
倒れたバイクを起き上がらせる。一目でわかるほどにひん曲がったフォーク、凹み、傷つき塗装の禿げたタンク。一か八かスターターを押すもエンジンはブロロ……と最後の断末魔を上げてお釈迦になった。
「逝っちまったか...。ローンも残ってんのに。どうしたものか……。」
バイクをカーブの外側に立たせる。ナビとして使っていたスマホは事故と同時に飛ばされてしまったようだ。どこを探しても見当たらなかった。あまりの危機的状況すぎるせいか、むしろ冷静な自分に晴樹は恐怖を感じていた。
来た道を覗く。一台も通らない過疎化した道。行くべき道を覗く。曲がりくねり先の見えない道が続いている。
カーブの外側のガードレールに持たれ掛かる。山の中腹あたりだろうか今まで登ってきた分の高さを見下ろすように下を覗く。
目線の先、おおよそ2キロくらいだろうか、至る所が森林の中そこだけが開けている。よく目を凝らせば茶色の屋根が見える。
「あれは...!?」
地獄にも仏とはこのことかと思う。ガードレールを跨いで越える。傾きが急な山道を滑るように降りる。そして屋根を見つけた方向へ歩いていく。
「暑~~い!!!」
一時間ほど歩いたころだろうか。あたり一面に広がる木々に視界は情報を与えず、疲弊しきった肉体と精神は正常な判断をさせない。
「そういや、遭難したときはその場にいるのが正解とか言っていたっけ。」
路上に放り出したバイクのことは一切忘れて、無我夢中で歩き続けているが何も見えない。汗が溜まり、濡れたようにも感じるブーツの中が更なる不快感を与えてくる。まさしく遭難。決して諦めているわけではないが薄っすらと晴樹の脳裏に『死』を感じた。頭を振り、嫌な閃きを拭い去る。どうせ待っていても誰も来なかったと自分を奮い立せまた一歩を踏み出す。
切り開かれた場所に出た。目の前には巨大なトンネルが鎮座していた。
暗い中は一つの明かりもなく、黒い穴がぽっかりと開いているだけだ。まるで入っていく人を吸い込んでいくように。
それはある種の好奇心といったものだろうか、根拠もなくこの先に目的地がある。そんな気がした。
トンネルの中は真夏にもかかわらず涼しく、冷えた風が突き抜けていた。しかし地面は舗装されておらず、一歩踏み出すごとにぬかるんだ道に足がとられそうになる。
入ってから30分くらい歩いたところでトンネルの出口が見えた。長い間暗い道を歩き続けていたせいか、遠く先にある出口の光が眩しい。
トンネルを抜けるとそこは村だった。トンネルを歩いていただけで気付かなかったが、かなり昇り坂だったようだ。山の中腹を貫いて作られたトンネルの出口は村を一望するのに十分な高さだったからだ。
「人気の少なそうな村だなぁ...。」
たった一つの希望を託し、その一歩を踏み出した。
下山しようにも体のあちこちに飛び出た枝がひっかる。
「痛ッ‼」
もう2時間以上彷徨い続けているが一向に地上にたどり着かない。歩き続けてるせいか足裏の感覚がマヒし始めている。更にこの真夏のライダースーツだ、体の至る所から汗が吹き出し、気持ち悪さを倍増させている。
(この山、思った以上に傾斜が緩い…。そのせいで下っているのか平行に移動しているのか分かりづらい...。)
「喉が...渇いた...。」
更に歩き続けたが地上はまだ見えない。周りを見渡してもあるのは木、木、木。
それでも一歩を踏み出す。しかしその足は砂利を踏みつけていた。土でぬかるんだ足は滑るのには十分なほどの条件を満たしていた。
視界が上方向にスクロールする。そして後頭部に重い一撃。
起き上がろうにも足が動かない。
「ここら辺に熊はいねぇよな?」
仰向けに倒れたまま瞼を閉じて少し休息をとる。かなり疲れていたせいかそのまま寝てしまっていた。
居眠りから目覚めたのは鈴の音だった。シャンシャンと軽い音が連続して聞こえてくる。同時に笛の高音がリズムを作る。
まだ完全に開き切っていない目をこすりながらその音の方向に耳を傾けた。祭のお囃子のように和楽器の音が聞こえる。
その時辺りが暗くなり始めているのに気が付いた。袖をまくり、時計をみる。
「19時前...。」
身体を起き上がらせ、その音の方向に歩み始める。
やっと人に出会える、助かった。安堵が歩みを軽くする。
森の木々の間からオレンジ色の揺らめきを見つけた。晴樹はそちらの方へ促されるままに近づいた。そして後悔した。
その演奏と明かりは全てこの一団が原因だった。仮面をつけ、山伏の服を着た30人ほどが山を降りていた。
一人は篳篥を仮面の下から吹き、一人は和太鼓を叩く。竜笛が高い音を奏で、笙の音が森中に響いていた。
その音はどこか懐かしさを感じると同時に不気味さを生み出していた。
行列の先頭ではおたふくの仮面を被った巫女が舞を舞っている。松明を持った者はそれを振り、火の粉をまき散らす。
山を抉り取ったようにできた一本道を行列は降りていく。
晴樹はその集団を草木を掻き分けた中で覗いていた。
「なんだこりゃ…。祭りか?」
それにしてはあまりにも村の方が静かすぎる。
「まるで儀式のようじゃないか。」
晴樹は横目に行列を見ていたが、ある一点に目が止まった。それは少女だった。4人の男が担ぎ上げる神輿。その上にちょんと乗った少女と目が合った。他のものと違い、顔を隠していない。白い髪をおかっぱに切り揃え、真っ赤な瞳は松明に照らされ、燃えているようだった。
ある種の金縛りというものか、無表情な少女と目が合ってから体が動かせない。神輿に乗った少女がこちらを凝視されながら移動していく。ちょうど目の前を通りすぎた後、突如金縛りが解けた。
全身に掛けていた力が一気に解放され、後方に滑ってしまった。足元の枯れ枝を踏みつけた。折れた枝がバキッと音を出した。雅楽に混じる雑音に行列の演奏が止まった。
顔のない視線がこちらに向いている。肌を刺すような凍り付いた雰囲気に押し潰されそうだった。晴樹は尻もちをついた姿勢のまま後ずさりする。恐怖の臨界点が越えた晴樹は絶叫と共に来た道を走り抜ける。
「うわっぁぁぁぁぁぁ‼‼‼」
異音を聞いた奏者達は懐から得物を取り出す。30センチ弱の匕首を取り出す。そして音の主、走り去った部外者を追跡した。
晴樹は走りながら振り返る。暗くなった森の中に黒い大きな影が追いかけていることは明白だった。
無我夢中で走り抜ける。道なき道、獣道。目の前に映る道を走り抜ける。しかし一向に追跡者を撒ける様子はない。
むしろその足音は近づいているようにも感じられる。距離を目視しようと振り返った瞬間だった。
黒い影は真後ろにいた。咄嗟に腕を挙げた。銀に閃いた刃がその腕を掠める。カミソリで裂かれたかのようにライダースーツが切れた。痛みが伝達し、脳へ届けられる。
「痛ァ‼」
その感覚は本能を刺激し、回避行動へと変換される。より一層大きな歩幅で距離を取る。それが運の尽きだった。石に足を取られた。足首を挫くのと同時に体の重心が右に偏る。反射的に右手を横に出すも、なにもつかめない。そこは空中だった。
コンマ数秒後、自身の身体が山道を転がっているのを晴樹は感じた。全身に打撲痛が響く。転がっていく体には枝が突き刺さり、平衡感覚さえ失われていく。側頭部に石のような硬い物がぶつかる。その一撃で晴樹は意識が遠のいていった。
晴樹が目を覚ました時、最初に目に入ったのは星空だった。全身が痛い。上半身を上げようとすると右脇腹に鋭い痛みが刺さった。患部に目をやると、自分の脇腹には切り株があった。そこから飛び出た枝は真っすぐに自分の脇腹を突き刺していた。
どうやらこれのおかげで落下から止まったものの怪我の元にもなっていることを理解した。身体を横に左にずらし、枝を引き抜く。ぽっかりと開いた穴から血が垂れる。次は下半身を動かそうとするも次は右足が痛む。挫いてしまったものだろう。
切り株に腰を下ろし、痛みが引くのを待つ。どうやらここは伐採した後のようだ。一帯には切り株が並び、ここだけ空の光が見える。ポケットからハンカチを出し、裂く。紐を作り、半分を腕に巻きつける。もう半分を脇腹で括る。動脈までは傷つけていないようだ。徐々に出る血が減っていく。晴樹は体の力が抜けていくのを感じた。深く息を吐き、空を見上げる。
明かりが全くないせいか星がきれいに見える。
「家族になんて言ったらいいんだ…。いきなり村人に襲われたとか言っても信用されないだろうし…。いや、こんな怪我してるんだけどな。事故の時の傷とか言われるんだろうな。」
そんな独り言を呟いている時だ。後方から落ち葉を踏み抜く音が聞こえた。
切り株から立ち上がり、音の方向を睨みつける。今の手負いの状態ではまず逃げ切れない。
戦うしかない。歯を食いしばり、震える足で地面を踏みしめ左拳を前に、ファイティングポーズを構える。
足音は開けた場所に近づく、星の光に照らされその姿がはっきりしたものになる。晴樹はその姿を見て拍子抜けした。
それは小さな少女だった。自分の身長から考えても小さい。小学生だろうか、130程の少女が歩いてきた。
しかし晴樹は構えを崩さなかった。それは少女の持つ異質さだった。歩みは遅く、さながらゾンビのようだ
その全貌を見たとき、それは確信に変わった。黒髪を乱し、粗末な和服を着ている。その目は充血したかのように真っ赤だった。伸びた爪をこちらに向けている。それは〇イオハザードのゾンビそっくりだ。
少女はこちらの姿を見た瞬間、こちらに飛び掛かってきた。上空に跳ねた細い体躯から腕が伸びる。貫き手を躱し、晴樹は右パンチを繰り出す。だが少女は空中と思えないほどの軌道でそのパンチを躱す。
「嘘だろ…!?」
驚く暇もなく少女はその腕を掴み、足を絡める。その重さに体ごと倒れこむ。
腕を身体に巻き付けてくる。腕十字の状態だ。関節に逆らった方向へ捻られた腕が軋む。
「ぐぇぇ」
少女の体の大きさからは考えられないほどの怪力が腕を折ろうとしている。晴樹は右腕を少し持ち上げ、一気に叩きつける。
少女の締めが緩んだ。その隙を狙い、少女の首に腕を掛ける。アームチョークで締め落そうと腕の力を加える。
斬られた傷が痛む。力を加えるほどに痛みが増していく。少女はハンカチごとその腕に噛みついた。
少女の犬歯がハンカチに隠された傷跡を抉る。滲んだ血がハンカチに移り、少女の口内へ広がっていく。少女は口に溢れた液体を一口飲み込んだ。
押さえきれないほどの少女のパワーに晴樹の腕が緩んだ。
(ヤバい…‼)
しかしその少女の身体に敵意はなく、もがき苦しんでいるようだった。アームロックを外すと少女は地面に転がりまわっている。首元をかきむしり、苦しんでいる少女を傍目に晴樹は後退りする。
「がぁ……ぐぇぁ……!!」
少女の開ききった瞳孔がこちらを刺すように睨みつけていた。その気迫に腰を抜かしてしまい動けない。
少女の体が白い光に包まれる。一帯を包むように輝いた光は晴樹の身体を飲み込んだ。
「ぐわっ」
あまりの光に目を腕で覆った。その光は瞼からでも感じるほど強かった。その輝きも徐々に失われていく。完全に光が消えたと感じ、その腕を下した。
眼の前にはあの少女が切り株の上で正座していた。みすぼらしい服ではなく白い上衣に緋色の袴。さながら巫女の出で立ちだ。長い黒髪を結い、艶がかった黒髪は夜空の光に照らされている。
「貴方が私の器ですね。」
少女は切り株の上で深々と頭を下げた。優雅なその一礼に見とれていたが、すぐに現実に戻された。
「君は何者だ?」
「私は舞。
顔を上げた少女は無表情に答えた。
「まい?けいやくしゃ?」
「ええ。貴方の血を得た私は亡者から貴方に仕えるものとなりました。皆月晴樹様。どうか私の器として戦ってください。」
切り株から立ち上がり、近づいてくる。伸びてきた腕が晴樹の手を握る。
小さく温かい手が触れる。繋がれた手から熱いものが流し込まれるような感覚を覚えた。
ガサッ
後方からの音に二人は顔を向ける。黒い影がこちらに向かってきている。
「な...なんだ...?」
「追手ですね。私と同じ、野良の巫女です。」
黒い影が人型を結ぶ。乱した髪に赤い瞳、這い寄る姿はまさしくゾンビだ。
どうしたらいいのか分からない晴樹の前に舞が出る。右腕を前に出し、左手を胸の前に置く。背筋を伸ばし、右足を前に出した。
晴樹にはその構えに見覚えがあった。
「合気か…?」
ゾンビ少女が獣の如く、突進する。伸びた爪を舞に向け、刺し貫こうとする。
舞は体を横へずらし、その貫き手を躱す。左手で少女の顎を押さえ、右手で少女の左腕を引く。
まるで少女自らが身体を落としたかのように地面に沈み込んだ。
「ガァッ…‼」
後頭部を強く撃ったせいか、少女はうずくまっている。
舞は大きく足を振り上げ、少女の頭部を一気に踏み潰した。ゴキュという鈍い音共に赤黒い血が飛び散った。赤い袴の上からでもわかる血痕が点々と付いていた。
「殺したのか…?」
「はい。」
無気質に答える。
あまりの異常性に声が出ない。腰をついている晴樹に舞は手を差し出す。その手に触れるのが怖かった。
自分の力で立ち上がる。
「ここではなんですので、移動しましょう。」
舞は踵を返し、森の中へ進んでいく。晴樹はその歩みについていくことしかできなかった。
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