第27話 総理、酌み交わす
恐山ダンジョン配信から、数週間が過ぎたある夜。
東京の空は群青に沈み、高層ビルが放つまばゆいネオンが星の代わりに輝いている。
港区は赤坂。
政財界の重鎮たちが密談に使うと噂される高級料亭にて。
その軒先に、黒塗りの車が止まった。
迅一郎は、SPの促しに応じて後部座席から車外に降りる。
黒のコートの裾を整えながら、小さく息を吐いた。
迅一郎の到着と同時に、格子戸の向こうから女将が姿を現し、彼に向かって静かに頭を下げた。
迅一郎は短く会釈を返し、女将のあとに従って暖簾をくぐる。
案内されたのは、店の最奥の個室だった。
障子の向こうから人の気配がする。
迅一郎は襖の前に立ち、姿勢を正して声をかけた。
「和泉です。只今到着いたしました」
「おう、入れ」
「失礼いたします」
迅一郎は静かに襖を開け、部屋に足を踏み入れた。
六畳ほどの畳敷きの室内を、行灯の淡い灯がほの暗く照らしていた。
床の間には掛け軸と生け花が整然と飾られ、店の格式を物語っている。
中央には漆塗りの座卓。その上には、季の素材をふんだんに使われた懐石料理が並べられていた。
その座卓の奥に初老の男が一人、ワイシャツを袖まくりして腰を下ろしていた。
「よう、迅」
中で待っていたのは、内閣官房長官の桜木国継だった。
迅一郎は国継に向かって会釈する。
「遅れて申し訳ありません、官房長官」
「いい、いい。ここでは
「ですが、仕事の話では?」
「半分はな。もう半分は——久しぶりに息子とゆっくり酒を飲みたかった」
迅一郎は苦笑しながらコートを脱ぎ、座布団の上に腰を下ろした。
国継は、卓越しに徳利を傾け、迅一郎の手元の盃に酒を注ぐ。
「……それにしても迅、今回もまた大した活躍だったな」
静かな乾杯のあと、国継は口元にわずかに笑みを浮かべ、新聞を差し出した。
迅一郎はそれを受け取って、目を通す。
一面には『和泉首相、恐山ダンジョンを単独踏破』の大きな見出し。
写真には、探索直後、報道陣のカメラに囲まれる自分の姿が写っていた。
記事の内容は、世間の驚きと称賛、そしてエリクサーの安定確保による、政治的な波紋を伝えるものだった。
「流石は元特級探索者、〝
国継は盃を傾け、甥の働きを素直に称える。
だが、迅一郎の表情には浮ついた色はない。
迅一郎の意識は、今の称賛よりも、未来に待ち構える課題に意識を向けていた。
「まだ、エリクサーを
「その件だがな、先日、福地のヤツが俺のもとにきたぞ。先の閣議の補正予算案。制度の大幅な見直しを理由に再調整をしたいと」
国継は苦笑を漏らす。
「迅、一体どんな魔法を使った? あのことなかれ主義者が、この俺に物申すなんて。ほんの数週間前のヤツとはまるで別人だ」
「なにも。ただ福地大臣は、政治家としての原点に立ち返っただけです」
迅一郎の言葉に、国継はゆっくりと盃を揺らした。
香りを確かめるように一口含み、静かに目を閉じる。
やがて盃を置き、低くつぶやいた。
「迅……お前はまだ、何もわかっていない」
「なにを、ですか」
しばしの沈黙が落ちる。
店内には、雅な琴の音が静かに流れていた。
国継の目がわずかに細められ、射抜くような鋭さと、どこか試すような不敵さを帯びて、迅一郎を見つめていた。
「恐山でお前が手に入れたエリクサーは、多くの病を癒すだろう――確かに、それは理想だ。だがな、理想を現実に落とすとき、そこには
「……血、ですか」
「ああ。既存の医療体制、製薬業界、保険構造、諸外国……。お前の理想は、それらすべてを敵に回すぞ。そのことを理解しているか?」
迅一郎は盃を置いた。
ゆっくりと頷く。
「理解しています。しかし、それでも前へ進むべきです。エリクサーは難病医療の概念を根本から変えうる。治せない病を、治せる時代にする。であるならば政治家としてするべきことは、その利益を一刻も早く国民に届けることではないでしょうか——」
迅一郎はまっすぐ国継のことを見つめながら、言葉を継ぐ。
「今回手に入れたエリクサーは、すぐに寄付しました。そのうちの一人に、昴くんという十歳の少年がいます。小児がんを患い、長いあいだ病と闘っている。寄付をしたとき、本人はまだ理解していないようでしたが――ご両親と医療関係者の方々が、涙を流して喜んでくれました。その涙と笑顔を見た瞬間、政治家として自分が正しい道を選んだと、そう確信しました」
その言葉に、国継は苦笑した。
「お前は昔から変わらんな……理想ばかりで、現実が見えていない」
「理想を見なければ、現実は変わりません」
「迅、政治はな、忖度と妥協の積み重ねだ。理想を貫いた者は、いつも途中で折れる。あるいは、
国継は再び盃を傾け、低く続ける。
「今回のことは目を瞑る。すでにエリクサーの活用に向け、世論は動き始めてしまっているからだ。だが勝手な真似は、二度は許さん」
その声は、警告の色を強く帯びていた。
声色を変えないまま、国継は言葉を続ける。
「この国はな、変化を求めていない。人は変わりたいと口で言うが、変わる痛みに耐えられる者は多くない。だからこそ、政治家は変えてはいけない。守り、次の世代へ国を継ぐのが仕事だ」
「……義父さん。守ることと、ただ立ち止まることは違います」
「なに?」
「現状を頑なに固辞する。それは、ありようによってはただの事なかれ主義です。その行き着く先は政治の硬直だ。今の日本は、長年の事なかれ体質のせいで、まるでフリーズしたパソコンのように硬直してしまっている」
迅一郎の声が静かに熱を帯びていく。
「そして——その硬直の結果……
迅一郎の反論に、国継の目つきが鋭さを増した。
「あいつのことは、誰も責められん。仕方なかったと、そう割り切るしかないんだ」
「僕には割り切ることなどできない。クリスが死んだことも、
「迅っ! やめないか!」
国継の声が鋭く室内に響いた。
「率直に聞くぞ。迅、お前……何を企んでいる?」
「企みなどありません。僕はただクリスの遺志を継いだだけです。この国をよりよい形に変える。そのために総理大臣になった、それだけです」
「――ならば、俺の言うとおりにしろ」
その言葉は、圧力というより命令に近かった。
そこにあったのは義父の情ではなく、官房長官としての支配の響き。
それでも迅一郎は、静かに首を横に振った。
「申し訳ありません。その指図は受けません。僕は、僕の信念に基づいて政治を行う。その結果について裁きをするのは官房長官、あなたではない。国民です」
「ポピュリズムを目指すのか。お前は」
「いいえ。ポピュリストは言葉で人を動かしますが、僕は結果で国を動かすつもりです。ただ、一手誤れば、そこに陥ることになる危うい道だということは自覚しています」
「もう一度言う……出る杭は、打たれるぞ」
「貴方に、ですか?」
その瞬間、空気がぴたりと止まった。
国継はじっと迅一郎を見つめ、盃を静かに卓へ置く。
ことり、と陶器が触れる微かな音が、重い沈黙を際立たせた。
迅一郎は、まるで喉元に冷たい刃を当てられたような圧を感じる。
やがて、国継は口の端をゆるめて小さく笑った。
「……まあいい。忠告はした」
すぐに表情を穏やかに戻した国継は、徳利を取り上げて迅一郎の盃に差し出す。
「ほら、飲め。緊張ばかりじゃ、酒がまずくなる」
「いただきます」
促しに応じて、迅一郎は盃を口に運んだ。
舌の上で広がる酒の味は、どこか苦く感じられた。
胸の奥に沈むのは、静かな予感――
そう遠くない未来、この尊敬する義父と袂を分かつ日が来るかもしれないという思いだった。
「……あかりの奴は元気にしてるか」
「ええ、おかげさまで。幼稚園でも友達が増えたと喜んでいました」
「そうかそうか、それはなによりだ」
「これを——」
迅一郎は懐から自身のスマホを取り出し、あかりの写真を国継に見せる。
「大きくなったなぁ」
国継は目を細め、スマホの画面に映るあかりを見つめる。
七五三参りの前撮りで撮影した、振り袖姿だった。
「子供の成長は早い。すぐに抱っこもできなくなるんだろうな」
「ええ、抱っこができるうちにぜひ顔を出してください。あかりもおじいちゃんに会いたいと寂しがっています」
国継はスマホを返してから、小鉢の料理を箸でつまみ、軽く笑う。
迅一郎もつられて穏やかに笑みを返した。
「迅、総理大臣ともなると、家族の時間もなかなか取れんだろう」
「ええ。あの娘にはさみしい思いをさせてしまっていると思います。本当は僕が母親の役割も果たさなければならないのに……」
「年が明ければ通常国会が開かれる。そしたらもっと忙しくなるぞ。家族サービスはできるうちにやっておけ。先輩からのアドバイスだ」
静かなやりとりの合間に、箸が器に触れる小さな音だけが響く。
言葉の端々に、互いを気遣うような柔らかさがあった。
だがその笑みの裏に、言葉にはならない思惑がそれぞれに沈んでいた。
こうして、国継との料亭の夜は、穏やかに、しかしどこか張り詰めたまま更けていった。
《TIPS》通常国会
毎年1月に召集される国会で、会期は150日間と定められている。主に政府が提出する予算案や重要法案を審議するほか、国政全般にわたる議論が行われる。必要に応じて会期が延長されることもあり、国会活動の中心となる会期である。
《TIPS》ポピュリズム
大衆迎合主義。いわゆる、大衆(庶民)の声を重視し、既存の政治やエリート層への不満や不安を背景に支持を集める政治姿勢のことを指す。しばしば感情的な訴えや単純なスローガンで共感を得るが、現実的な政策との乖離や、社会的な分断を生む危険もあるとされる。
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