第11話 総理、家族と過ごす
永田町の一角に、都心らしからぬ緑に囲まれた一画がある。
その中央に立つのは、歴史を物語るような威風堂々とした建物だった。
赤煉瓦の外壁に精緻な彫刻が施された
その屋上には、叡智を象徴する四羽のミミズクの彫刻が据えられ、まるで守護者のように四方へ眼差しを向けていた。
首相公邸。
首相官邸から歩いてすぐの距離に建つ、総理大臣の暮らす館。
ここが迅一郎の住まいである。
夜の十時を少し回った頃。
首相公邸の正門前には、門の両脇に立つ制服姿の警備員が二人、黒い影のように無言で佇むのみ。
迅一郎は、彼らに軽い会釈を交わしながらその横を通り抜け、公邸の玄関へと歩みを進めた。
スーツの袖口には、ダンジョン探索でついた煤が残っていた。
つい数時間前まで、彼は新宿ダンジョンの下層でドラゴンと刃を交えていたのだ。
探索を終えてからは記者会見。
無数のフラッシュと矢継ぎ早の質問に答え続けた結果、帰宅はすっかり夜更けになってしまう。
迅一郎はため息を一つだけついてから、重厚な扉を押し開いた。
室内に広がるのは暖かな照明が灯る玄関ホール。
赤い絨毯が続き、その奥には二階へ続く中央階段が伸びている。
その階段を駆け下りる足音が、ぱたぱたと響いた。
「パパ——おっかえりなさい!」
「あかり……」
弾むように響くその声と共に、迅一郎の足元に飛びついてきたのは、一人娘のあかりだった。
あかりは大きな瞳を爛々と輝かせ、袖にフリルのついたピンク色のパジャマ姿で父を出迎える。
「ただいま。まだ起きていたんだな……」
しゃがみこんであかりを抱きとめつつ、迅一郎は腕時計をちらっと見やる。
子供が起きているにはいささか遅すぎる時間帯だった。
「申し訳ありません。どうしても総理が帰ってくるまでは起きていると……」
「白瀬くん……」
あかりに続いて階段を静かに降りてきたのは、秘書の結月だった。
黒のタイトスカートに白いブラウスというきちんとした装いのまま。しかし後ろでまとめていた髪の毛はほどかれて、目元にはハーフリムフレームの眼鏡が乗っている。
結月は迅一郎に向かって軽く頭を下げる。
その口元には、ほんのり柔らかな笑みが浮かんでいた。
「だってだって、きょうはパパの
「すごいな、あかり。難しい言葉を知ってるじゃないか」
「えっへへー、
あかりは小さな両腕で迅一郎にぎゅっと抱きつきながら、誇らしげに笑う。
迅一郎は、その栗色の髪を優しく撫でると、そのまま娘を抱き上げた。
「ありがとう、あかり。だがもう遅い時間だ。明日も幼稚園だろう? 今日はもうねんねしないとな」
「えー……でも……」
「じゃあ、寝る前にパパが絵本を好きなだけ読んでやる!」
「ホントっ!?」
その言葉に、あかりの瞳がぱっと輝いた。
「本当だとも、総理大臣は嘘をつかないんだ」
「ありがとパパ! だいすきー!」
迅一郎はそんな愛娘のことを抱きすくめ、そのまま寝室へと向かった。
***
あかりを寝かしつけ、迅一郎が居間へ戻ってきたのは、それから十分後だった。
部屋の中央に置かれたアンティーク調のダイニングテーブルでは、結月が一人静かにバインダーに閉じられた資料に目を通していた。
迅一郎はその向かい側に座り、結月に向かって目配せをする。
「早かったですね」
「ああ。一冊目の絵本を半分ほど読んだところで、もう、すぅすぅと寝息を立てていたよ。本当は眠くてしょうがなかったんだろうな」
迅一郎は柔らかく笑みを浮かべると、椅子の背もたれに体を預ける。
「白瀬くんも……遅くまで、いつもありがとう。秘書の君に、シッターのような真似までさせてしまって、本当にすまないね」
「いえ……」
結月は小さくかぶりを振ってから、穏やかな瞳で迅一郎を見つめ返す。
そして澄んだ声で付け加えた。
「あかりちゃんと一緒にいる時間は、私にとっても、かけがえのないものなんです。気にしないでください」
「そう言ってくれるのはありがたい。けれど……君だって多忙の身だ。どうか無理だけはしないでくれ」
「総理……」
結月は言葉を選ぶように一拍置き、ほんのりと頬を染めた。
「無理なんてしていません。むしろ、こうして総理と、あかりちゃんのそばにいられることが……今の私にとって一番の励みなんです。それに……」
結月はそっと視線を部屋の片隅に移す。
迅一郎も自然と同じ方向へ目をやった。
その先には、白木造の小さな祭壇が備えられていて、立てかけられた写真の中で一人の女性が写っていた。
迅一郎の亡き妻——桜木・クリス・
整った顔立ちには異国の血の面影があり、その穏やかな笑みには、こちらを見守っているような温かさが宿っている。
「あかりちゃんは、クリス先輩が遺してくれた希望の光です。それは……私にとっても同じです」
そうこぼした結月の声には、懐かしさと切なさが入り混じっていた。
迅一郎は小さく目を伏せる。
脳裏に、亡き妻の在りし日の面影がよぎり、胸の奥がずきんと疼いた。
「……あかりには、寂しい想いばかりさせてしまっている。いなくなったクリスの分まで、本当は僕が愛情を注がないといけないのに……」
「総理は十分すぎるほど愛を注いでいます。だって、あかりちゃんは、あんなにまっすぐで、笑顔に満ちているじゃないですか!」
結月の声は熱を帯びていた。
冷静な彼女にしては珍しい勢いで、言葉を続ける。
「私が保証しますから。
「白瀬くん……」
迅一郎はきょとんとした表情を浮かべ、それから小さく苦笑いした。
「いや、今の君らしくないな」
「え?」
「懐かしいね、君から
「あ……」
迅一郎の指摘を受けて、結月の白い頬が一気に朱に染まる。
思わず両手で口を押さえたが、時すでに遅し。
迅一郎は、そんな彼女の様子を、どこか懐かしむように目を細めた。
「あの頃を思い出すよ。僕とクリスと君……三人でダンジョンを探索していた頃を」
「……す、すみません! つい……!」
慌てふためく結月に、迅一郎は肩をすくめて笑う。
心の奥が少し温かくなるのを感じていた。
しばし沈黙が落ちた後、結月は思い切ったように顔を上げた。
その瞳には、真剣な光が宿っていた。
「……先輩。お願いがあります」
「ん? なんだい?」
「昔みたいに、私のことを——“結月”って呼んでくれませんか」
「え?」
予期せぬお願いに、迅一郎は目を瞬く。
結月は、どこか思いつめたような表情で続けた。
「わかってます。今の先輩は政治家で……私は、その秘書官。昔とは立場も関係も、何もかもが違います。でも、せめて二人だけのときだけでも……昔みたいに、名前で……」
「白瀬くん……」
結月の言葉に、迅一郎はしばし考え込む。
けれど、公私を問わず自分を支えてきた彼女が、真剣にすがるような眼差しを向けてくる。
その瞳に込められた想いの強さと切実さに、抗えるはずもなかった。
「わかった。じゃあ、結月……」
名前を呼ばれた瞬間、結月の顔がぱっと輝いた。
その笑顔はどこか幼さすら残していて、普段の冷静沈着な秘書の顔とはまるで違っていた。
迅一郎はそんな彼女を見て、胸の奥にふと浮かんだ想いを押さえきれなかった。
「あの娘が……あかりが笑顔を失わずにいられるのは、きっと君のおかげだよ」
「いえ、そんな……」
「本当にありがとう、結月。これからも僕らのことを支えてくれると嬉しい」
それは言葉には尽くせぬほどの感謝の想い。
迅一郎の言葉を受けて、結月はただ、少し潤んだ瞳で微笑む。
その微笑が、部屋を満たす静寂に優しく溶け込んでいった。
「——さて、もう夜も遅い。結月も上がるといい」
「先輩はどうするんですか?」
迅一郎は気を取り直したように、テーブルの端に積まれた黒いバインダーを手にした。
「明日は閣議がある。議題にざっと目を通してから休むとするよ」
「それなら——私も手伝います」
結月は立ち上がると、迅一郎の隣へ腰を下ろした。
「いや、さすがに申し訳ない」
迅一郎は思わず制した。
「君は今日も朝から詰めだったはずだ。明日も早いんだ。家に帰って休んでくれ」
「大丈夫です」
結月は目を細め、静かな笑みで首を横に振る。
「先輩のそばに尽くすのが、今の私の——
迅一郎を見つめ、まっすぐそう応える結月。
彼女は、軽口でも社交辞令でもなく、本気でそう言っている。
その眼差しが、迅一郎に対する信頼と、彼女の本気を物語っていた。
こうなってしまっては、結月は
迅一郎は息をつき、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……わかった。なら、甘えさせてもらうよ。結月」
「はい、先輩——」
こうして、迅一郎の首相就任初日の夜は更けていった。
《TIPS》首相公邸
内閣総理大臣が執務や生活を行うための施設。首相官邸に隣接し、公的な行事や外国要人との会談など公式の場として用いられると同時に、総理とその家族が暮らす住居の役割も持つ。
《TIPS》閣議
内閣総理大臣と全ての国務大臣が集まり、法案や予算案など国の重要事項を決める会議。原則として全会一致で決定され、その内容は内閣全体の意思となる。
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