【中巻:黄金の檻】第五章 影の戦争
カナリス提督のオフィスを後にしてから、私の人生は二重生活となった。昼は、戦時経済総監として、敗色濃厚な国家の崩壊を食い止めるために、無駄な努力を続ける有能なテクノクラート。夜は、寝室の隠し金庫に保管した短波受信機で、ロンドンの弟ダニエルからの暗号通信に耳を澄ます、国家反逆者。
私たちのグループは、決して一枚岩ではなかった。
カナリス提督や、元陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベック将軍のような国防軍の保守派は、ヒトラーがプロイセンの軍人精神を汚したと考え、帝政の復活に近い国家体制を夢見ていた。一方、カール・ゲルデラーのような文民政治家は、民主的な共和国の再建を目指していた。そして私は、そのどちらでもなかった。私は、ただ、自らが作り上げてしまったこの効率的な殺戮機械を、どうすれば最も効率的に停止させられるか、それだけを考えていた。
私の役割は、この「影の政府」の財務大臣兼兵站長官だった。クーデター成功後の国家経済の混乱を最小限に抑えるための緊急経済政策を立案する一方で、計画実行に必要な「資源」を調達する。
「計画には、信頼できる部隊の確保が不可欠です」ある夜、秘密の会合でベック将軍が言った。「特にベルリンの警備大隊を掌握しなければ、SSとの市街戦は避けられない。そのためには、部隊長たちを買収するための資金と、彼らの家族を保護する安全な隠れ家が必要になる」
「資金は私が用意します」私は即座に答えた。「『非戦略物資の廃棄予算』の名目で、秘密口座に資金を移すことが可能です。隠れ家は、私の管轄下にある『帝国才能誘致局』が外国人技術者用に確保しているゲストハウスをいくつか利用できるでしょう。ゲシュタポも、まさかそこにドイツ人の将校家族が隠れているとは思うまい」
私は、自らが設計した国家管理システムを、今度はそれを破壊するために利用し始めた。国家予算のフローをハッキングし、SSの監視網の死角を突く。それは、まるで自分が作り上げた巨大な機械の配線を、一本一本、慎重に繋ぎ変えていくような作業だった。この倒錯した行為に、私は暗い喜びすら感じていた。
弟のダニエルは、ロンドンから重要な情報をもたらしてくれた。彼は、連合国の情報機関と接触し、もし我々がヒトラーを排除した場合の、講和の条件を探ってくれていた。
『チャーチルは強硬だ。無条件降伏以外は認めぬ、と。だが、ルーズベルトは違う。ドイツが民主的な臨時政府を樹立し、占領地から即時撤退するならば、交渉の余地はある、と』
その情報は、我々にとって一条の光だった。無条件降伏となれば、国防軍の将校たちは、たとえヒトラーを憎んでいても、最後まで抵抗を選ぶだろう。だが、交渉による「名誉ある和平」の可能性があるならば、彼らを説得できるかもしれない。
しかし、時間は我々の味方ではなかった。
1943年の初め、スターリングラードで第6軍が壊滅。ドイツ軍は、歴史的な大敗北を喫した。この敗北は、ヒトラーの精神状態をさらに悪化させた。彼は、現実から完全に目を背け、将軍たちの忠告に耳を貸さず、裏切り者の捜索に血道を上げるようになった。ゲシュタポの監視の目は、国防軍内部にまで、これまで以上に鋭く向けられ始めた。
ある日、カナリス提督が血相を変えて私のオフィスに飛び込んできた。
「メンデルシュタム、大変なことになった。我々のグループの一員であるハンス・フォン・ドホナーニが、ゲシュタポに逮捕された」
私の血の気が引いた。ドホナーニは、我々の計画の核心を知る数少ない人物の一人だった。
「証拠は?」
「まだ掴まれてはいないようだ。表向きの容疑は、外貨管理法違反。君が『非戦略物資の廃棄予算』から捻出した資金の一部を、彼が扱っていた。ゲシュタポは、金の流れから我々に迫るつもりだ」
もはや、一刻の猶予もなかった。ドホナーニが拷問にかけられれば、全てが露見する。我々は、計画を前倒しで実行するしかない。
その夜、我々はベルリン郊外の森で、最後の会合を開いた。集まったのは、私、カナリス提督、ベック将軍、そして、一人の若き将校。クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐だった。彼は、アフリカ戦線で片目と片腕を失いながらも、その瞳に不屈の意志を宿していた。
「私がやります」シュタウフェンベルクは、静かに、しかし断固とした口調で言った。「総統大本営『狼の巣』での会議に、私ならば爆弾を持ち込むことができる」
作戦名は「ワルキューレ」。元々は、国内で反乱が起きた際に、ベルリンの予備軍が出動するための作戦計画だった。我々は、その計画を乗っ取り、ヒトラー暗殺の報を受けて、予備軍がSSやゲシュタポの幹部を逮捕するように、命令系統を書き換えるのだ。
私の役割は、ワルキューレ作戦発動後の通信を、経済省の回線を使って完全に掌握し、偽の命令を全国の部隊に伝達すること。そして、クーデター成功後の24時間以内に、経済の混乱を防ぎ、新政府の樹立を国内外に宣言するための、全ての準備を整えることだった。
会議が終わり、森の暗闇の中を一人、車へと戻る。梢を揺らす風の音が、まるで死者の囁きのように聞こえた。私たちは今、歴史という名の奔流に、小さな舟を漕ぎ出したのだ。その先に待つのが、新しい夜明けか、それとも全てを飲み込む滝壺か、誰にも分からなかった。
車に乗り込むと、私は運転手にベルリンへ戻るよう指示した。
だが、心の中では、別の目的地を思い描いていた。
それは、ゲーテとベートーヴェンが愛した、あの古き良きドイツ。
私がこの手で壊してしまった、もう二度と戻らないかもしれない、美しい祖国の姿だった。
(中巻 了)
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