【中巻:黄金の檻】第四章 東方の泥濘
1941年6月22日、ドイツは人類史上最大規模の軍事作戦、「バルバロッサ作戦」を発動した。三百万を超える兵士が、ソビエト連邦の国境を越えた。ヒトラーは、この戦いを「二つの世界の最終戦争」と位置づけた。彼が支配する効率的な**「国家実用主義」と、スターリンが支配する非効率な「共産主義」**。どちらのシステムが優れているかを、広大なロシアの平原で証明するのだと。
「スターリンの国家は、内部から腐っている」作戦開始前の会議で、ヒトラーは断言した。「人種的にも思想的にも雑多な寄せ集めに過ぎん。我々の合理的な一撃を加えれば、あの泥人形の巨人は、たちまち崩壊するだろう」
彼の言葉通り、緒戦は圧倒的な勝利の連続だった。ドイツ軍の電撃戦は、ソ連の防衛線を次々と突破し、何十万もの赤軍兵士が捕虜となった。私のオフィスには、ウクライナの穀倉地帯や、ドネツ盆地の炭鉱地帯を確保したという報告が次々と舞い込んだ。経済的観点から見れば、作戦は完璧に成功しているように見えた。私の仕事は、それらの「新規獲得資産」をドイツの戦争経済に組み込み、生産性を最大化することだった。
捕虜たちは「労働資源」として、ドイツ本国や占領下の工場へと鉄道で輸送された。私は、彼らを輸送するための列車のダイヤグラムを組み、彼らに与える最低限の食料カロリーを計算し、その労働力を数値化した。報告書の上では、彼らは人間ではなく、ただの「人的資源ユニット(HRU)」という記号に過ぎなかった。
しかし、冬が来た。ロシアの冬、「冬将軍」が。
ナポレオンを敗走させた歴史上の怪物は、ヒトラーの合理性をも嘲笑うかのように、牙を剥いた。気温はマイナス40度まで下がり、ドイツ軍の戦車のエンジンは凍りつき、兵士たちは夏服のまま凍傷で倒れていった。電撃戦という短期決戦を前提としていたため、十分な冬装備の準備を怠っていたのだ。これは、我が「効率的な」国家が犯した、最初の、そして致命的な計算ミスだった。
戦線は、モスクワ前面で膠着した。
戦争は、私が最も嫌う「非効率」な消耗戦の様相を呈し始めた。私のデスクに届く報告書の数字は、輝かしいものから、悲惨なものへと変わっていった。
「東部戦線、第6軍。凍傷による兵員損耗率、35%」
「G戦闘機団、燃料不足により稼働率40%に低下」
「捕虜労働部隊、チフスの蔓延と栄養失調により、月間死亡率20%超」
数字は、もはや勝利を語ってはいなかった。それは、巨大な国家機械が、自らが流す血によって錆びつき、悲鳴を上げている音だった。
その頃、家庭での私と妻クララとの間にも、見えない亀裂が深まっていた。彼女は大臣夫人として、表向きは負傷兵のための慰問活動などに参加していたが、その裏で別の活動に身を投じていることに、私は気づき始めていた。
ある夜、私が官邸から疲れ果てて戻ると、クララが慌てて屋根裏部屋から降りてくるのに出くわした。彼女のエプロンのポケットから、数枚の配給切符がはみ出しているのが見えた。それは、通常ではありえない量だった。
「クララ、何をしていたんだ」
「……いいえ、何も。古い服の整理をしていただけですわ」
彼女は目を逸らした。私は、彼女を問い詰めることができなかった。いや、真実を知るのが怖かったのだ。彼女は、私の知らないどこかで、私の知らない誰かを、助けようとしている。それは、この国家が「非効率」として切り捨てた人々であるに違いなかった。私の妻は、私の築いたシステムの、ささやかな抵抗者(レジスタンス)となっていた。私たちの間には、もはや政治の話も、未来の話もなくなった。ただ、互いの秘密の重さに耐えながら、沈黙の食卓を囲むだけだった。
ヒトラーは、現実を認めようとしなかった。彼は総統大本営「狼の巣」に籠り、地図の上の駒を、まるで現実の兵士であるかのように動かし続けた。彼の態度は、冷静な経営者から、負けを認められない狂信的なギャンブラーへと変貌していた。
「燃料が足りぬだと? ウクライナの油田を全力で稼働させろ! 食料が足りぬ? 現地住民から最後の一粒まで徴発しろ! 兵士が足りぬ? 占領地の若者を強制的に徴兵しろ!」
彼の命令は、もはや合理性に基づいたものではなく、意志の力ですべてを解決できるという、純粋な狂信から発せられていた。私が提示する、資源の限界を示すデータに見向きもせず、ただ精神論を叫ぶだけだった。
1942年の秋、私は東部戦線の後方司令部を視察する機会を得た。そこで私が見たものは、もはや国家や軍隊とは呼べない、地獄そのものだった。負傷兵で溢れかえる野戦病院、飢えと寒さで亡霊のように彷徨う住民、そして、「人的資源ユニット」として扱われる捕虜たちの、光のない瞳。
ある捕虜収容所で、私は一人の若いウクライナ人捕虜と目が合った。彼は、私の視線に気づくと、おもむろに胸のポケットから、擦り切れた何かを取り出した。それは、小さな木彫りの人形だった。彼は、その人形を、まるで宝物のように、震える手で私に差し出した。見返りを求めるでもなく、ただ、その人形に込められた人間としての最後の尊厳を、私に託すかのように。
私は、それを受け取ることができなかった。私は、彼の命の値段を、労働力として計算した男なのだ。私に、それを受け取る資格などない。私は、背を向けてその場から逃げ出した。吐き気をこらえながら、専用列車へと戻った。
ベルリンへの帰りの列車で、私は一人、弟のダニエルからの手紙を読んでいた。それは、赤十字を通じて届けられた、短いものだった。
『兄さんへ。君が愛したドイツは、ゲーテやベートーヴェンの国だったはずだ。数字と効率が全てを支配する国ではなかったはずだ。今、君が仕える国家は、もはやドイツではない。それは、黒鷲の紋章を掲げた、ただの野蛮な略奪集団だ。まだ君に、ドイツ人としての誇りが残っているのなら、目を覚ましてくれ』
手紙を持つ手が、震えていた。
そうだ、その通りだ。私は、ドイツを救うためにヒトラーに協力したはずだった。だが、その結果生まれたのは、ドイツの伝統も文化も、人間の尊厳すらも「非効率」として切り捨てる、ただの怪物だった。
ベルリンに戻った私は、その足でカナリス提督のオフィスを訪れた。
「提督」私は、ドアを閉めるなり切り出した。「前の話、まだ有効ですかな?」
カナリスは、読んでいた書類から顔を上げ、私の目を静かに見つめ返した。彼の目には、驚きの色も、喜びの色もなかった。ただ、全てを理解したという深い諦念だけが浮かんでいた。
「……いつでも。我々は、あなたの決断を待っておりました、大臣」
私は、ウクライナの捕虜が持っていた、あの木彫りの人形を思い出していた。あの時の、光のない瞳を。そして、配給切符を隠し、私に嘘をついた時の、妻クララの悲しい瞳を。
私は、あの瞳から逃げた。だが、もう逃げることはできない。
この国を、この怪物を止める。それが、彼らに対する、私にできる唯一の、そして最後の償いだった。
(中巻・第四章 了)
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