第2話 国宝なんですから

 その日の午前8時50分、鷹野スバルは職場である文化庁奈良出張所に到着した。出勤打刻端末にカードをかざす前から、職場の空気がどこかねばついていた。

 

 同僚たちはいつも通りパソコンに向かっていたが、その指先は明らかに落ち着きがない。誰もが例の件を話題にしたいが、上司の耳を気にして沈黙している、そんな温度だった。


 「おはようございます」


 とりあえず声をかける。が、返事は妙に遅い。隣の席の後輩、牧野忠次が、ひそひそ声で言った。


 「先輩、あれ……見たっすか? 鷺ノ丸のやつ。」


 「見たよ。朝刊にも出てたしな。」


 「マジで立ったんすかね?」


 「立つわけないやろ。国宝やぞ。歩かせたら文化財指定取り消されるわ?」


 自分でも冗談のつもりだったが、牧野は笑わなかった。


 「でも……」と牧野が囁く。「夜明け前、うちの親が外で唸り声を聞いたって。地鳴りみたいな。」


 鷹野は一瞬、心臓が止まりそうになった。


 その時、課長の甲高い声が室内に響いた。


 「おい、鷹野くん。ちょっとこっち来なさい」

 

 課長室の扉が閉まると同時に、空気が切り替わる。


 「きみ、昨日鷺ノ丸におったやろ?」


 「はい、修復足場の確認でいましたよ。」


 課長は無言で一枚の紙を机の上に滑らせた。防衛省のロゴが入った極秘扱い文書だった。


 対  象:国宝 鷺ノ丸城

 事案分類:第七種現象

 備  考:未確認機構反応(可動兆候)


 「……可動?」


 「そう書いてある。文化財が動いたという報告は前例がない。だから、君に現地確認を命じる。正式な調査じゃない、あくまで非公式だ。報告も内部のみや。」


 「はあ……非公式、ですか。」


 「それから、防衛省の人間が一名、同行する。現地で合流してくれ。」


 課長はそこまで言って、眼鏡の奥で目を細めた。


 「鷹野くん、これだけは言っとく。現地で何かを見ても、報告書には書くな。わかったな?」


 「……はい?」


 課長はゆっくりと書類を引き寄せ、ため息をついた。


 「君がこれから見ること、見たことは、最初から存在しないってことや。」


 ****


 昼過ぎ、鷹野は公用車で鷺ノ郡へ向かった。道中、ラジオは相変わらず「秋晴れが続くでしょう」を繰り返している。だが、前方の空は明らかに曇りだ。


 鷺ノ郡の国宝・鷺ノ丸城は、すでに黄色いテープでぐるぐる巻きにされていた。門前にはパトカーと自衛隊車両。なぜか「文化財保護区域」と「防衛省管轄区域」が、同じ看板の左右に並んでいる。要するに、誰も責任を取りたくないという意思表示だ。


 鷹野スバルは文化庁の身分証を見せ、テープの隙間を抜けた。現場は妙に静かで、風が止まっていた。代わりに、地面のどこかで「カン……カン……」と金属音が周期的に響いている。まるで誰かが地下で作業を続けているようだった。


 「鷹野さんですね?」


 背後から声がした。振り返ると、若い女性が立っていた。防衛省の腕章、ヘルメット、黒い防護スーツ。鷹野は思わず、「学生かと思った」と言いかけて飲み込んだ。


 「鹿野マナ、防衛装備庁です。」


 「文化庁の鷹野です。えらい若い方が現場担当で……」


 「人員不足です。あと、こういう分類不能案件は、だいたい若手に回ってくるんです」


 マナはタブレット端末を操作しながら、視線を天守に向けた。そこには、確かに異常があった。


 「……石垣、なんか動いてません?」


 「はい。正確には、位置がずれて戻るを繰り返してます。周期は約十二分。原因は不明。地盤沈下とも違う。」


 「つまり、勝手に組み替わってると…?」


 「そうなります。」


 マナの口調は淡々としているが、瞳の奥は異様に冷静だった。若いのに、もうこの状況のおかしさに慣れている目だった。


 「防衛省は、これを地震由来と認識しているんですか?」


 「いいえ。原因はわかりませんが、地震由来でないのは確定しています。」


 「……鹿野さん。」


 「なんですか?」


 「この件、我々文化庁の領域ですか?関係なさそうな気がしますけど。」


 「関係ありますよ。だって、なにしろ動いてるのは国宝なんですから。」


 マナは淡々とそう言い、ヘルメットのバイザーを下ろした。

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