第5話 壁の向こう
高橋の部屋を出たあと、妙な息苦しさが残った。
秋の夜気が冷たく、住宅街の路地に人影はない。
マンションの外灯の明かりが薄く滲んで見えた。
あの部屋の匂いが、まだ鼻に残っている。
湿った木とカビのような、どこか懐かしい匂い。
高橋は何かを見ていた。
ベッドに腰を下ろし、焦点の合わない目で壁をじっと見つめていた。
「音がするんだよ」と、あいつは言った。
「壁の中で、誰かが歩いてる。俺の名前を呼んでる」
冗談のように笑ったが、その頬はこけていた。
見舞いに行ったのに、帰るときにはなぜか謝られた。
「来なきゃよかったのに」
家に帰ってから、洗面台で何度も手を洗った。
それでも落ちなかった。
壁を触った手のひらに、うっすら白い粉のようなものが残っていた。
石鹸を変えても、ぬるついた感触が消えない。
寝室の電気を消しても、しばらく眠れなかった。
暗闇の中で、隣の部屋の壁がかすかに鳴る。
“……ズ……ズズ……”
最初は風かと思った。
けれど、音は壁の中を這うように移動していく。
右の壁から、天井、そして頭のすぐ上へ。
何かが、私の真上を通っている。
翌朝、目を覚ますと、天井のクロスがわずかに膨らんでいた。
触ると“ぺたり”とした感触。
あの日の壁と同じだった。
指先を離すと、白い跡が残った。
爪の形が、うっすらと。
仕事に行くと、周囲の音が気になった。
オフィスの壁の向こうから、誰かの息遣いが聞こえる気がする。
集中できず、ふと見ると、隣の席の同僚が私を見ていた。
「大丈夫ですか? 手、血が出てますよ」
見ると、右手の甲に細い傷がついていた。
まるで爪で引っかかれたみたいに。
その夜、夢を見た。
暗い廊下の先に高橋が立っている。
口を開いて何かを言おうとしているが、声は出ない。
代わりに、背後の壁が波打ち、そこから白い手が何本も伸びていた。
私の方へ。
その手のひとつが高橋の肩を掴み、ゆっくりと壁の中へ引きずり込んだ。
私は走り寄るが、足が動かない。
壁の中から聞こえた。
――「見えるようになったんだね」
目を覚ますと、頬に冷たいものが触れていた。
枕の上に白い粉が散っている。
それが手の跡だと気づくのに、時間はかからなかった。
数日後、会社に高橋の母親が訪ねてきた。
「息子が、部屋からいなくなって……」
上司が対応した。私は何も言えなかった。
報告書の端に“まただ”とだけ書いた。
その晩、壁に耳を当てた。
何かを確かめたかった。
“ズ……ズズ……”
やはり音がする。
遠くから、ゆっくり近づいてくる。
心臓の鼓動と重なるたび、内側の世界が膨らんでいくようだった。
壁の向こうで、誰かが呼んでいる。
それが誰なのか、もう分かっていた。
私は目を閉じて、呼吸を合わせる。
壁がわずかに呼吸を返す。
ぬるい空気が頬に触れた。
――「もうすぐ、全部ひとつになる」
声がした。
耳元ではなく、頭の中に直接。
目を開けると、壁が静かに波打っていた。
白い手が、薄皮一枚を隔てて動いている。
私はその上に自分の手を重ねた。
“ぺたり”
指の位置がぴたりと合った。
まるで鏡に触れたように。
私は壁に向かって、ゆっくりと息を吐いた。
壁の中からも、同じ呼吸が返ってくる。
それはもう恐怖ではなかった。
ただ、当たり前の日常の音のひとつになっていた。
ここにいる 東雲ユウマ @sinonome103
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