第0話 始まりの部屋

 あの部屋のことを、最初に聞いたのは現場の昼休みだった。

 古い社宅の解体が決まり、私たちは準備を進めていた。

 鉄筋ではなく木造二階建て。昭和三十年代に建てられたという。

 「二〇三号室だけは気味が悪いんですよ」

 後輩の田島が言った。

 「前にいた作業員が、壁の中に人がいるって言い出して……結局、行方がわからなくなったらしいです」


 迷信みたいな話だった。

 だが、現場に入った初日から違和感はあった。

 建物の中は湿っていて、どの部屋も古い木の匂いがした。

 けれど、二〇三号室だけは空気が重い。

 足を踏み入れると、畳がじんわりと冷たく、壁がかすかに汗をかいているように見えた。


 壁紙の一部が浮き上がっていた。

 手で押すと“ぺたり”とした感触。

 そのとき、壁の奥で何かが動いた気がした。

 ……気のせいだと思いたかった。


 午後、壁を剥がし始めると、湿った埃が舞い上がった。

 中から出てきた木材は黒ずみ、ところどころに爪の跡のような傷があった。

 奥の一枚を外そうとしたとき、指先に“生ぬるい風”が当たった。

 風ではない。

 壁の中から、何かがゆっくりと“息を吐いて”いる。


 私は息を止めて覗き込んだ。

 暗がりの中で、何かが動いた。

 人の指のようなものが、木の隙間をなぞっている。

 あわてて後ずさりした瞬間、

 ――“ズ……ズズ……”

 壁の中から擦れるような音がした。


 「おい、誰かいるのか!」

 思わず叫ぶ。

 返事はない。

 ただ、壁の裏からかすかな声がした。

 「……見えるようになったんだね……」


 ぞっとして背筋が固まった。

 振り返ると田島が立っていた。

 顔色が悪い。

 「今、誰か喋りましたよね……?」

 私は首を振った。

 「気のせいだ。埃で声が響いただけだ」


 だが、田島はその日のうちに高熱を出し、翌朝には姿を消した。


 報告書をまとめるため、私は翌週もう一度現場に入った。

 壁はすでに取り壊され、木材が束ねられていた。

 黒ずんだ板の表面には、無数の手形が残っていた。

 白い粉のようなものが付着し、乾いた皮膚の跡のように浮かんでいる。


 上司が言った。

 「もったいないな。まだ使える木だ。次の物件に回そう」

 私は思わず声を上げた。

 「やめたほうがいいですよ、この材は……」

 しかし聞き入れてもらえなかった。

 板はトラックに積まれ、「第二山田アパート」へ運ばれた。


 作業を終えて事務所に戻ると、机の上に報告書の控えが置いてあった。

 そこには私の書いた覚えのない一文があった。


 > 壁の中で誰かが動いている。


 ペンの跡は乾いていた。

 まるで、何日も前からそこにあったように。


 その夜、社宅の夢を見た。

 真っ暗な部屋。湿った壁。

 その向こうから、かすかに擦れる音が聞こえた。

 “ズズ……ズ……”

 私は無意識に壁へ手を伸ばした。

 指先に、柔らかいものが触れた。

 ――誰かの手だ。

 その手は、ゆっくりと私の指を握り返した。


 目を覚ますと、手のひらに黒い粉のような跡がついていた。

 出勤しても、それは落ちなかった。


 あれから何年も経つ。

 あの木材が使われたというアパートで、

 夜ごと壁の中から音がするという話を聞いた。

 私はもう現場には行かない。

 けれど時々、寝室の壁の向こうであの音がする。


 “ズ……ズズズ……”


 まるで、私を探しているみたいに。

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