第2話 退去清掃

 退去清掃の仕事を始めてもう五年になる。

 慣れたつもりだった。

 ゴミ屋敷も、孤独死も、どんな現場でも、終わった後に床が見えると妙な達成感がある。

 だけど、あの日の部屋だけは、今も思い出すたびに吐き気がする。


 その物件は、郊外にある築三十年の木造住宅だった。

 入居していたのは若い男で、最近になって会社を無断欠勤していたらしい。

 警察が確認に入ったときには、すでに部屋は空っぽだった。

 住人は行方不明。

 荷物だけがそのまま残されていた。


 俺の仕事は、部屋を原状回復できるように片づけること。

 古い家特有の匂いが鼻をついた。湿気とカビ、それに少しだけ、鉄のような匂い。

 それでも作業を始めたときは、いつも通りだった。


 異変に気づいたのは、掃除機をかけているときだった。

 壁の一部が、黒く滲んでいる。

 触ると湿っているのに、水の跡じゃない。

 手のひらを当てた瞬間、

 ――ピチッ

 まるで内側から何かが吸い付いたような音がした。


 慌てて手を引くと、指先に黒い粉のようなものがついていた。

 拭いても落ちない。

 ぞっとして、スマホで写真を撮った。

 そのとき、画面の隅に何かが映った。


 壁の奥で、白い指が蠢いていた。

 ほんの一瞬。

 見間違いだと自分に言い聞かせ、作業を続けた。


 夕方、作業を終えようとしたとき、業者仲間の田村から電話が入った。

 「お前、今日あの○○町の案件行ってんのか?」

 「ああ、行ってるけど。なんかあった?」

 「気ぃつけろよ。あの部屋、前の住人、行方不明って話だが──壁から“音”がするって苦情が何件も来てたらしい」

 「音?」

 「夜中に壁叩く音とか、人の呼吸とか。あの辺の住人、全員引っ越したってよ」


 電話を切ったあと、ふと気になってスマホの写真を確認した。

 ……映ってなかった。

 さっきまであった黒い手の跡が、画面から消えている。

 その代わり、床に落ちた俺の作業靴のそばに、

 “別の靴跡”がくっきり残っていた。


 部屋には俺しかいない。

 その靴跡は、俺のものよりずっと小さい。


 外に出たときには、もう日が暮れていた。

 車に乗り込んでハンドルを握ると、後部座席のシートが濡れていた。

 振り向く勇気は、出なかった。


 その夜、家に帰って風呂に入ろうとシャツを脱いだとき、背中に違和感を覚えた。

 鏡を見ると、そこに黒い指の跡が五本、

 はっきりとついていた。

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