ここにいる

東雲ユウマ

第1話 高橋の家

 高橋が会社を休み始めたのは、九月の中頃だった。

 最初は体調不良だと思っていた。だが、週明けに出社してきた彼の顔を見て、俺は言葉を失った。

 目の下のクマは深く、頬がこけ、髪はぼさぼさ。何より、ぼんやり宙を見つめるような目つきをしていた。


 「最近引っ越したんだろ?」と俺が聞くと、高橋は少し間を置いてうなずいた。

 「うん……会社の近くで、安かったから。ちょっと古いけどさ」

 そのあと小さく笑って、「でも、夜は変な音がするんだよ」と冗談めかして言った。


 それから一週間後、高橋はまた会社に来なくなった。

 電話もLINEも既読がつかない。上司は「放っておけ」と言ったが、俺は妙に気になって、帰りに彼の家へ寄ってみることにした。


 住所を頼りにたどり着いたのは、古びた二階建ての木造住宅だった。

 周囲の家々は新しく建て替えられているのに、そこだけ時間が止まったように古い。

 夕暮れの光に照らされた外壁は、ところどころ黒く変色していて、郵便受けにはチラシが詰まっていた。


 インターホンを押すと、しばらくしてドアがゆっくり開いた。

 高橋が立っていた。

 痩せて、顔色が悪い。だが、笑顔を作ろうとしているのがわかった。

 「……悪い、部屋散らかってて」

 招かれるままに上がると、カビと古い畳の匂いが鼻をついた。

 中は思ったより片付いていたが、壁紙のあちこちが黒く滲んでいた。


 「なんか湿気がすごくてさ。夜になるとポタポタ音がするんだ」

 高橋は苦笑しながら言った。

 その声が、どこか遠くから響くように聞こえた。


 話をしているうちに、俺はあることに気づいた。

 高橋は、時々、壁の一点を見つめて固まる。

 俺が声をかけても、反応がない。まるで何かを見ているようだった。

 「……そこ、何かあるのか?」と聞くと、彼はゆっくりと振り向き、笑った。

 「ほら、いるだろ」


 視線の先には、ただの白い壁があるだけだった。

 けれど、薄暗い照明の下で、壁の模様が一瞬、人の手の形に見えた。


 その瞬間、背筋が凍った。

 何かが壁の中から“押している”。

 紙一枚の向こうで、指先が蠢いているような錯覚。


 俺は慌てて立ち上がった。

 「また来るよ、高橋。今日はゆっくり休め」

 そう言って玄関に向かうと、背後で彼の声がした。

 「気をつけて。……うつるから」


 その夜。

 帰宅して壁に寄りかかると、冷たい感触がした。

 見れば、そこに薄く湿った手形がついていた。


 翌朝。

 鏡を見ると、首の後ろに黒い染みのようなものができていた。

 ──まるで、誰かの指の跡のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る