第8話 密航者たち

廃墟の研究所には、静寂の中にかすかな鼓動があった。


ひび割れた天井から月光が差し込み、宙に舞う埃を淡く照らす。


希佐の前に立つアリステアは、両手を上げていた。


その態度は穏やかでありながら、どこか傲慢さを含んでいた。



「話をしに来ただけだよ。」


まるで地雷原のど真ん中に立っていることに気づいていないかのように、軽い声で言う。


希佐は冷たい目で彼を見据えた。体の緊張は解けない。


彼女は言葉を返さなかった。


ただ、動いた。



身をひねり、迷いのない蹴りを放つ。


完璧な軌道。しかしアリステアはわずかに体を傾け、優雅なほどの速さでかわした。


その隙を逃さず、ソードとオードリーが希佐の両側に構える。


アリステアは息をついた。


「……そうか。穏やかに話す気はないってわけだね。」


声の調子が一段低くなる。


「なら——力づくで聞いてもらうしかないな。」



「Stop。」


空気が弾けた。


時間が凍りつく。埃も、瓦礫も、動きを止めた。


誰の呼吸も聞こえない。


アリステアだけが、止まった世界を歩いていた。


彼はゆっくりと手を鳴らした。


次の瞬間、目に見えない衝撃波が走り、三人の体が四方へ弾き飛ばされた。



「ぐっ……!」


「きゃっ!」


「くそっ!」


床に叩きつけられる音が、静寂に響く。



「他に方法はなかったんだ。」


アリステアの声は静かだった。


希佐は崩れた瓦礫の上で身を起こし、睨みつける。


「突然現れて……“話をしよう”ですって? 正気じゃないわね。」


「まぁ、“突然”っていうのは少し違うかも。」


アリステアは軽く笑い、ポケットから携帯を取り出した。


画面の光が淡く揺れる。


「俺には“どこにでも目がある”から。」



その言葉に、希佐の脳裏をよぎった記憶。


――リリアナが笑いながら、同じ言葉を口にしたあの瞬間。


「……CROWS。」


希佐の声が低く震えた。


オードリーとソードの表情が固まる。



希佐が前へ踏み出す。炎のような動き。怒りが音を立てて燃え上がる。


連撃。蹴り、拳、掌打。すべてが一点に向かう。


アリステアは二撃を防いだが、三撃目を受けて背中から吹き飛んだ。


「うっ……! くそ、いい蹴りだな……。」


それでも笑う。口の端が上がる。



希佐の瞳は炎のように輝いていた。


「何を企んでいるの? CROWSの犬。」


アリステアは静かに立ち上がった。その表情には、もはや皮肉も余裕もなかった。


「……知りたいのは、理解だ。」


その声には重さがあった。



ソードが前に出る。


「少なくとも、俺たちを殺す気はなさそうだ。もし本気なら、もう終わってる。」


「でも、それで信用できるわけじゃない。」


オードリーの言葉は鋭いが、視線には迷いがあった。


アリステアはその二人を見て、微かに笑う。


「構わない。……ほんの少しだけでいい、話を聞いてくれ。」


希佐は腕を組んだまま、無言でうなずいた。


「話して。」



「俺の名はアリステア・アストラ。」


その声は、まるで儀式のように落ち着いていた。


「CROWSの上級メンバーであり、デルタ部隊の一員。任務は“バスタード”の追跡と捕獲。」


短く息を吐く。


「……それが“表向き”の話だ。」


「つまり、“裏”があるのね。」


希佐が言うと、アリステアはわずかに口角を上げた。


「CROWSを信用してないんだ。」


「信用していない……?」


「そう。CROWSという組織は、謎に包まれている。」


「誰も知らない。会長ケイシーの出自も、目的も。表に出ることすらない。」


「設立はたった一年前。――何もないところから突然現れた。」



沈黙が落ちる。


希佐は小さく息を吐き、目を細めた。


「……つまり、彼女も“時間を越えてきた”可能性があるってことね。」


アリステアの目がわずかに見開かれ、次の瞬間、ゆっくりと頷いた。


「否定はできない。」



希佐は一歩近づいた。声が震える。


「FATEが、私をここに連れてきた。」


その名を口にした瞬間、空気が張り詰めた。


オードリーが息をのむ。ソードが拳を握る。



「フロリアン・アウリオン・テオス・エオス。」


希佐の言葉が静かに流れる。


「それは触れるものすべてを壊すエネルギー。父が研究しようとして……研究所は崩壊した。」


「目を覚ましたとき、私は別の時代にいた。」



アリステアは言葉を失っていた。


「事故で……来たのか。」


「ええ。そして……ケイシーも、おそらく。」


希佐は月明かりを仰いだ。


「私は戻れない。――戻るべきかどうかもわからない。」


「でも、FATEを壊せば、多くの命を救える。たとえこの時代に取り残されても。」



アリステアの目が揺れる。何かが崩れ落ちるような音がした。


「君も……誰かを守りたいんだな。」


希佐がその手の震えに気づいたとき、彼は静かに微笑んだ。


「子どもたちがいる。街の外の施設で暮らしてる。あの子たちは……俺のすべてだ。」


「守りたい人がいるなら、立ち止まれない。俺も同じだ。」



希佐はその言葉に、自分の母の声を思い出した。


“ひとりが落ちたら、皆で飛ぶの。”


カラスの話。あの日の約束。


彼女の胸の奥で、何かが静かに重なった。



「FATEは……奇跡なんかじゃない。」


希佐は低く言った。


「それは呪い。希望に寄生する“破壊”よ。」


アリステアはゆっくりとうなずいた。


「なら、一緒に壊そう。」


「……あなたを巻き込みたくない。待っている人たちがいるんでしょう。」


「危険でも、未来を守れるなら構わない。」


彼は片膝をつき、まっすぐに見上げた。


「助けさせてくれ。敵としてじゃない。守るための仲間として。」



希佐は沈黙のまま彼を見つめ、息を吐いた。


「……信じるわけじゃない。」


「それで十分だ。」


アリステアは立ち上がり、携帯を取り出した。


「君たちの端末を。」


ソードとオードリーがそれぞれのスマホを差し出す。


端末の画面が光を放ち、情報が流れ込む。



「CROWS本部の内部マップだ。」


「二日後、全施設でメンテナンスが行われる。その間、職員のほとんどはいない。」


オードリーが腕を組み、頷いた。


「絶好の機会ね。」


「俺と相棒が中から協力する。」


アリステアは手を差し出した。


「一緒にやろう。」



希佐はその手を見つめ、静かに笑った。


「――未来のために。」


壊れた天井から吹き込む風が、淡い銀色の埃を舞い上げた。


月は静かに彼らを見下ろしていた。


まるで、この奇妙な同盟を見届ける証人のように。



遠く離れた高層ビル。


ガラス越しに街を見下ろすひとりの女。


ケイシーは薄く微笑み、呟いた。


「――より良い未来のために。」


その言葉は、誰にも届かない祈りのように夜へ溶けていった。

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