第7話 奇妙な同盟者
空は灰色で、ほとんど白に近かった。
冷たい風が乾いた枝の間をすり抜け、まるで古い秘密を囁くようにざわめいた。
まだ幼い希佐は、湿った草の上で静かに空を見上げていた。
母がそっと彼女の小さな手を包み、そのぬくもりだけが風の中にあった。
はるか上空では、いくつものカラスが完璧な隊列を組んで空を横切っていく。
――振り返ることなく、ただ真っ直ぐに。
「見える? 希佐。」
母は目を離さずに優しく尋ねた。
少女はうなずいた。薄曇りの光の中、黒い影がまっすぐな線を描いて進んでいく。
「いつもあんなふうに飛ぶの。」
母の声は静かで、それでいて凛としていた。
「立ち止まらない。後ろも見ないの。」
希佐は首を傾げた。
「どうして?」
母は空を見上げたまま、少し寂しげに微笑んだ。
その笑みには、言葉にできない哀しみが潜んでいた。
「カラスはね、ひとりでは飛ばないの。」
娘の手を軽く握りしめながら続けた。
「ひとりが落ちたら、皆が待つの。ひとりが傷つけば、仲間がそばで飛びながら見守る。」
「……家族みたい。」
「そうね。」
母はうなずいた。瞳には揺るぎない光が宿っている。
「もう飛べない者がいたとしても、誰も忘れない。
彼らの分まで前へ飛ぶの。翼の一振りごとに、その記憶を抱いて。」
大きな鳴き声が空を裂いた。
一羽のカラスが旋回し、再び群れに戻っていく。
まるでその言葉を肯定するように。
そして、灰色の空の奥へと消えていった。
「カラスは後ろを振り返らない。」
母は静かに言った。
「振り返らなくてもいいの。――だって、もう一緒に飛んでいるから。」
その意味を、当時の希佐は理解できなかった。
けれど、胸の奥で何かが熱く灯った。
――“みんなで前へ飛ぶ。誰かのために。”
その記憶は、灰の中に残る火のように、今も心の底で燃え続けていた。
希佐はゆっくりと瞬きをした。
現実に戻ると、夜の森が広がっていた。
黒く湿った木々の向こうに、星ひとつない空。
あの頃の空とは違う。それでも、風の音が心に響いた。
――「前へ進むのよ、誰かのために。」
母の言葉が、静かに胸の奥で反響した。
それが、彼女の“空”であり、“誓い”だった。
「……すごかったわね!」
オードリーが目を輝かせながら言った。
すぐに咳払いをして、照れ隠しのように続ける。
「ごほん……つまり、その……無事でよかったってこと!」
希佐は小さく笑った。
一方、ソードは無言で携帯を見つめ、電波を探していた。
「何か気になることでも?」
希佐が尋ねると、彼は一瞬ためらいながら首を振った。
「いや……なんでもない。」
「落ち着いて。」
オードリーが彼の腕を軽く叩く。
「家族に連絡を取ってみましょう。」
ソードはうなずいた。
古びた扉がきしみ、三人は廃墟の中へと消えていった。
同じころ――。
街の片隅、灯りの消えた家。
アシュリーは鍵をテーブルに置き、ため息をついた。
「……お兄ちゃん、まだ帰ってない。」
静まり返った廊下を歩き、ソードの部屋の前で立ち止まる。
ドアノブに触れた手が、かすかに震えた。
扉を開くと、ベッドは整ったまま。空気は冷え切っていた。
「……お兄ちゃん。」
その声は、闇の中に吸い込まれていった。
白い体育館。
磨かれた床と光るバスケットゴール。
観覧席の上で、一人の男が沈んだように座っていた。
ジェレマイア。彼の隣には、皮肉げな笑みを浮かべるスヒョンがいた。
「そんな難しい顔しないでよ、ジェレマイア。」
彼女は軽い調子で言った。
「そのうち向こうから来るって。今日はもう休みなさい。」
ジェレマイアはゆっくりと立ち上がる。
「“明日”か……。」
その言葉を口にした瞬間、笑みが消えた。
「俺には、“明日”なんて考えてる暇はない。」
スヒョンは肩をすくめた。
「またそれ? ほんと真面目ね。」
ジェレマイアは低い声で続けた。
「見たんだ。あの研究所が崩れ落ちる時の彼女を。」
「私もいたけど?」
「……まさか、あの二度目の爆発が彼女を巻き込んでいたとは。」
スヒョンの瞳が一瞬揺れる。
「彼女がここにいるのは……俺のせいだ。」
踵を返すと、その表情は冷たく変わった。
「今回はひとりで動く。ついてくるな。」
スヒョンはその背中を見送り、小さく笑った。
「……もしあなたが、もう少し冷静だったなら。こんなことにはならなかったのにね。」
研究所の中は、静寂と埃の匂いに包まれていた。
オードリーとソードは、希佐のホワイトボードを見つめていた。
「ねぇ……“FATE”って、いったい何なの?」
オードリーの声に、希佐は机の端に手を置いた。
「正確なことはわからないわ。ただ、突然現れたの。1327年3月17日。」
声は低く、記憶を掘り返すように。
「父がそれを見つけた時、あたり一面が……破壊されていた。」
頭の中に、焼け焦げた森の光景が蘇る。
光る図形のような存在――“それ”が静かに呼吸していた。
「父は仲間と一緒に、そのエネルギーを研究しようとしたの。」
「……“その男”も一緒にね。」
白衣の人影、試験カプセル。過去の残像。
「でも、父はすぐに研究をやめた。“危険すぎる”って言って、母と私に何も告げず去っていった。」
ドアが閉まる音、残された静寂。
「そして二ヶ月後、FATEは姿を消した。研究所も、人も、全部……。」
希佐の拳が震えた。
「FATEは、破壊しかもたらさないエネルギーよ。」
オードリーが息をのむ。
「そのせいで、あなたはここに?」
「そう。」
希佐の声はかすかに震えた。
「事故の時、私はそこにいた。眩い光の中で気づいたら、この時代にいたの。」
「……そして“あの男”も一緒に。ジェレマイア。」
その名を口にすると、空気が一気に重くなった。
「だから……探さなきゃいけない。彼を止めて、FATEを壊す。――そして、元の時代に帰る。」
オードリーがそっと彼女の手を握る。
ソードも肩に手を置いた。
「きっと、帰れる方法を見つけるわ。」
「FATEがあなたをここに連れてきたなら、FATEが鍵になる。」
「簡単じゃないけど……やってみよう。」
希佐は涙を拭き、笑みを浮かべた。
「まったく……ほんとにバカね、二人とも。」
三人は、短い笑い声を交わした。
その時、廊下から足音が響く。
希佐の耳がぴくりと動いた。
「……ん?」
薄暗い通路を、ひとりの男が歩いてきた。
整った服装。靴の光沢が、ほこりの中で光を弾く。
微笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開く。
「お邪魔して悪いね。……楽しそうな集まりだ。」
アリステア。
彼の目がソードに向く。
「おや……どこかで見た顔だな。」
希佐が動く。
一瞬で間合いを詰め、拳を振り下ろした。
「!」
「Stop。」
その言葉とともに、世界が止まった。
塵が宙に浮かび、音が消える。
時が凍りついたような静寂。
そして、再び流れ出す。
希佐の拳は空を切った。
アリステアはもう、目の前にはいなかった。
「……え?」
ソードとオードリーが構える。
アリステアは両手を上げて微笑んだ。
「降参だよ。」
「……!」
「話がしたいんだ。君と。」
希佐は目を細め、静かに息を吸った。
「なら、話して。」
アリステアの笑みが深まる。
「……気に入らないかもしれないが、今日から俺は君の“仲間”だ。」
「奇妙な同盟者……ってやつさ。」
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