嘘つきな彼女
最初にあの人を見かけたのは、春の終わりだった。公園のベンチで、ただ空を見上げていた。
周りの子どもたちは笑いながらボールを投げ合い、お母さんたちは井戸端会議。でもあの人だけは、何もしていなかった。
風が吹いても、誰かが通り過ぎても、まるでこの世界の音が届いていないような。
でも気づいたら声をかけていた。
「ねえ。お兄さん、何してるの?」
その人はゆっくりと私の方を見る。
耳に手をあて、静かに首を振り唇を動かした。
「聞こえません」
その動作が、妙にきれいだった。
だからなのか、私はなぜか安心した。知らない人なのに心のどこかで、この人なら話しても大丈夫と思った。
それから色んな話をした、ずっと嘘をついて。
「友達が多いの」
「クラスで人気者なんだ」
「部活でも活躍してる」
そう言うたびに、彼は笑ったり、手を動かしたりしてくれた。指で丸を作ったり、手をひらひらさせたり。
あのへんてこなハンドサインが好きだった。本当は意味なんてないのかもしれない。
でも、私は勝手に意味をつけた。
丸はすごいね、手を振るのはうれしい。、手を前に出すの大丈夫?。
まるで二人だけの言語みたいで、楽しかった。
現実では誰も私の話を聞いてくれなかったから。教室では、笑い声の裏で私の名前が囁かれていた。机に落書きされ、鞄の中にゴミを入れられた。
でもあの人の前では、そんな現実をなかったことにできた。
あの人の世界は静かだった。だから私の嘘も、静かに受け入れてくたんだと思う。
ある日、放課後の教室で机を蹴られた。
「うざいって」
耳を塞いでも、声は頭の中に染み込んでくる。帰り道、泣きたくなって空を見たら、雲の切れ間に月が出ていた。その瞬間、どうしても誰かに聞いてほしくなった。
それで、公園に行った。
彼はいつものベンチにいた。私は笑って、
今日も楽しかったよ、と言いながら隣に座った。
でも、笑えなかった。口が勝手に開く。
「ねえ。今日ね、変なこと言われたの。私のこと、ウザいって」
あの人は少し目を細めて、静かに頷いた。
怒りもしない、慰めもしない。ただ、受け止めるように。そして、いつものように両手のひらを前に出して大丈夫という動作。
そのいつもの動作、泣きたいような笑いたいような変な感じ。誰にも言えなかった言葉が、やっと誰かに届いた気がした。
彼に伝わったか、何を思っていたのかはわからない。でも、私はその沈黙に救われた。
それを私は笑う。
「お兄さんってやさしいね。でも本当は、何言ってるか分かってないでしょ」
その言葉に彼は一瞬止まったように感じた。
「でも、それでもいいよ」
それからしばらく、私は毎日公園に通った。
いじめは少しずつ酷くなった。靴がなくなり、教科書に落書きされ、トイレに閉じ込められた。
でも公園に行けば彼がいた。
何も言わずに座っているその姿を見ると、それだけで息ができた。
ある日、私は彼に袖をまくって、腕のあざを見せた。
彼は何も言わなかった。ただ、両手を前に出して、優しい仕草をした。
「大丈夫」
そのサインの意味が本当は違っていても、私は信じた。
この人は、私の痛みを見てくれた。
それで十分だった。
数日後、クラスがざわつき始めた。
「うちらのアカウント、誰かに晒された」
スマホの画面を見せ合いながら、みんなの顔が青ざめていた。
私は知らないふりをした。
でも心のどこかでわかっていた。
あの人だ。
証拠もないのに、そう思った。
胸の奥が熱くなって、怖くなった。彼の静けさの裏に、そんな怒りがあったなんて思いもしなかった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
誰かが、私を見ていてくれた。それだけで、涙が出た。
守られた、なんて言葉を現実で感じたのは初めてだった。
次に彼に会ったとき、私は笑っていた。
「もう大丈夫なの。みんな、優しくなったの」
彼はいつものように、手を動かした。
丸を作る。
「ねえ、お兄さん、ほんとは聞こえるでしょ?」
彼の肩がびくっと動いた。
私は笑った。
「だってね。ちゃんとお話し聞いてなかったら、あんなことできないよね?」
それでも彼は何も言わなかった。ただ、小さく笑って、肩をすくめる。
その仕草が少しだけ優しくて、少しだけ悲しかった。
「でも、それでもいいよ」
私はそう言って立ち上がった。
彼の沈黙の中には、たぶんたくさんの言葉が詰まっている。
聞こえないふりをしているのはきっと、周りの音がうるさすぎるから。
私も少しわかる気がした。
誰にも届かない声を出し続ける苦しさを。
あの日を最後に、私は公園へ行っていない。
いじめは終わったけれど、学校には居場所がない。
でも私は前よりも少しだけ、強くなれた気がする。
嘘をつかずにいられるようになった。
あの人の前で、本当の自分を話せたから。
世界はまだうるさいけれど、あの静かな時間を思い出せば、少しだけ生きやすい。
制服着て、鏡の前に立つ。
シワのない新しいリボン。少しだけ強い自分に、両の手を前に出す。
「大丈夫」
春になったら、また行こうと思う。
でたらめなサインでもいい。
意味がなくてもいい。
私はあの人に、ちゃんとありがとうと言いたい。
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