第2話

「ソフィアさんっ」

 思考に沈みながら書斎を出たところでかけられた声に、目を丸くして目線を上げる。扉の反対側の壁際に女性が立っていた。

「お母様、こんな所でお待ちになっていらっしゃるなんて」

 秋も半ばを過ぎて夜の冷たさが積もった廊下に、立ち止まって待っていたらしい。急ぎ足で近付いてきた母の手をとると、随分と冷たくなっている。

「だって、大事なお話なのに、わたくしは入ってはいけないってお父様は言うのよ」

「そうでしたのね」

 予想はしていたが、やはり父によって締め出されていたのだという。この若い娘のような気質の母には、それが腹立たしかったようだ。

「お母様、お話聞いてくださる?」

「ええ、ええ! もちろんですとも」

 意気込んでそう言う手を引いて、母の居室に向かう。きっと女主人の冷えた手足を暖めるため、暖炉に火が入っているに違いない。それに、今頃お茶の用意だってされていよう。

 さて、何をどう話そうか。そう考えながら、ソフィアは手の熱を移すように母の手を握った。


「まったく! こんなに素敵なソフィアさんを振るなんて!」

「もう、お母様ったら」

 ティーカップで手を温めながら怒る母を宥める。

「お父様もお父様よ、こんなお話をするのにソフィアさんの側に居させてくれないなんて」

「お母様……ありがとう存じます。でも、わたくしは大丈夫よ」

 ティーテーブルの対面ではなく斜め隣に座った母の手に手を重ねて、ソフィアは優しく微笑む。

 きっと母――父が「ノーラ」と呼ぶエレオノーレが居たら、あんなに短時間で話が終わらなかっただろう。今話しているように感情に任せた発言があって、それに父もソフィアも対応しなければならなかったはずだ。

 それに、あんなに冷静に話す父とソフィアに怒って、更に長引いた事も想像が出来る。

「……それで、お父様は……」

「新しいご縁があるそうですよ」

 先回りして言ってみれば、途端に母の頬に温度と笑顔が戻った。

「お父様がおっしゃるなら、きっと素敵なご縁ね」

「ええ……王弟様だそうよ」

「リヒテンブルク公爵様?」

 笑みがすこし曇ったのを見て、苦笑して見せる。

「家の格としては申し分ないでしょう?」

「そうですけど……」

 重ねた手を撫でてみせて、苦笑を深めてしまった。

「お母様の懸念もわかっていますわ」

「ソフィアさん……」

「きちんと正妻としてお迎えくださるそうですから」

 更にカップを囲う母の手を撫でれば、くしゃ、と顔が歪んでいく。

「そんな……ソフィアさんが後添えなんて」

「そうは言っても、ひいお祖母様のご実家でしょう? その血筋をお求めなのよ、きっと大切にしていただけるわ」

 ね、と首を傾げて見せれば、歪んだ表情のまま目を伏せられる。

「そうだと良いのだけど……」

「ええ。顔合わせさせていただけるそうですし、わたくしが結婚出来るようになるまでにまだ二年はありますもの。見極めましょう?」

 そこまで言うと、ようやく視線が合う。手を引いてカップの中身を飲むように促せば、素直に――涙と共に飲み込まれた。

 パチパチ、と暖炉の薪が音を立てるのを合図に時計を見れば、いつもなら就寝の準備を始めている時間だった。

「遅くなってしまいましたわ。そろそろお暇しますわね、お母様」

 そう言えば、消沈の様子を拭い去って女主人の顔になってくれる。そう言う母親だと知っているからこそ、こんな事を言うのだ。

「ああ、もうこんな時間なのね。おやすみなさい、ソフィアさん」

「おやすみなさい、お母様。また明日お話しさせてくださいませ」

 抱き寄せられるままに頬に頬を当てて、熱を分け合う挨拶をする。

 エレオノーレはソフィアに“完璧な淑女”を求めない数少ない一人なのだ。


   ◆


 部屋に戻れば、侍女たちが就寝の準備を整えて手ぐすねを引いて待っていた。

 風呂場でもいつもより丹念に労われ、ソフィアは苦笑する。お気に入りの香に包まれ、湯船で温まった身体を揉まれながら、主人として言う事にした。

「ここまでしなくても良いのよ、別に」

 仕える者としては当然ながら、明確な何かを返されなかったが、苦笑に苦笑を返される。

「大袈裟よ。わたくし、落ち込んだりはしていないもの」

「ソフィア様はきっとそうおっしゃると思いましたが……」

「私たちが残念に思ったのです」

 そう言われて、何度か瞬く。なぜ、と思ったのが伝わったらしく、侍女たちは笑みを深くした。

「ソフィア様がきちんとお役目を果たそうと努力なさっていたのを、間近で見ていましたもの」

「それを、よりにもよって婚約者である王子が蔑ろにするなんて」

 ねぇ、とソフィア以外が言い合う。笑みも浮かべなくなって苦々しいばかりの表情の侍女たちを見回した。主人としてどう言うべきか。

「……このような仕儀にはなったけど、こうして評価してくれる者も居るなんて。わたくしは果報者ね」

 そう言えば、苛立っていた目から労りだけが落ちてくる。感情を誘導出来た事に内心で胸を撫で下ろした。彼女たちにも、あまり王家への不敬ととられる事は言わせられない。

「……さあ、湯冷めする前には寝たいわ。明日からも忙しくなりそうですからね」

 そう言えば、揃って声が返る。機敏に、しかし丁寧さを失わずに動き出した侍女たち。その事に、良い使用人が揃っていると満足して、目を瞑る事にした。

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完璧淑女は愛を知らない あやな紗結 @ayana_sau

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