完璧淑女は愛を知らない

あやな紗結

第1話

 パチリ、と暖炉の火が跳ねる。その割に部屋の空気は冷え切っていた。まだ暖炉に入れたばかりの火と、部屋の主人に切り出された話題によって。


「まあ。婚約破棄、ですか」


 一人がけの豪奢ごうしゃな肘掛け椅子に座らされたソフィア・フリダーフェルトは父親の言葉を繰り返す事しか出来なかった。

 口付けていたティーカップを応接机に置いて、父親の方を向く。

 その父親は、書斎机に項垂うなだれるようにして更に付け加えた。


「そうだ。王子は立太子しないとまで言ったらしい」

「それは、また……」


 閉じたままの扇子で口元を中途半端に隠して、ソフィアは目を伏せる。

 続く言葉は罵倒ではなかったが、それでも王家を侮辱するものになるだろうと飲み込まれる事になった。例え家庭内であっても迂闊な発言は控える、と言うのが受けた淑女教育で重要な部分であったためだ。


 それに、言いたい言葉は父であるレオポルトとて同じであるのは分かっている。

 随分とあの女に入れ込んだようだ、と。


「お前と我が家への保証はされると言うが」

「家にはともかく、わたくしにと言うのはなかなか難しいでしょうね。……どのようなご縁が残っているかしら?」


 扇のふちからはみ出た口端がくっと上がり、状況を鼻で笑う。

 婚姻可能な成年まであと二年ほどの高位貴族の娘。それも王太子妃として、ひいては王妃としての教育を長年受けてきた、国内でも最上級の乙女だ。

 一体どれほど格の下がった結婚をするか、国中が期待しているだろう。


弟君おとうとぎみが手を挙げているらしい」

「おとうと?」


 この国は婚約者であった王子の下には同腹と腹違いの娘が一人ずつしか居なかったはず、と幾度か瞬きを繰り返してしまう。


「まさか、リヒテンブルク公爵様ですか?」


 現在の公爵は、リヒテンブルク公爵家に婿入りして臣籍降下した王弟だ。

 ソフィアとは一回り以上歳が離れている。公爵家の一人娘であった妻には先立たれて子どもは居ない。


「家の格としては申し分が無いのでしょうね」


 何代か前にフリダーフェルトの家に公爵家から嫁いだ者が居るから、近い血縁ゆえに先代も許したのだろう、という事も推測は出来る。

 王家の次に高い家であり相手だ。それ故に出た名前であろう。

 だが、初婚から年の離れた相手の後家というのは、社交界で随分面白がられるだろうと想像にかたくない。


「正妻として迎えたいと言われている」

「まあ、うふふ、そうでなければわたくしの耳に入っていないでしょう?」


 今回の婚約破棄を一番に怒っているのは、家の面子を王家に潰された、当主であるレオポルトに他ならない。その父親が、半端な縁談をソフィアの耳に入れるわけがないのだ。


「お父様が良いと思う先でしたら、どこにでも参りますわ」

「……後は国から出るくらいしかないからな」


 渋面じゅうめんを隠さない様子に、ソフィアは扇子をもう少し開いてクスクスと娘らしく笑ってみせる。

 国内でソフィアに釣り合う年齢や階層の男で、その身の空いている者はそうそう居ない。婚約者が居るか、既婚なのが普通で、そうでなければ何かしらがあるのだ。


「それでは、そのように。きっと顔合わせくらいはさせていただけるのでしょう?」

「当たり前だ。瑕疵かしがあるのはあちらだからな」 

「そう強くおっしゃらないでくださいな、お父様」


 ようやくこちらを向いたレオポルトに、娘は扇を下ろしてにこりと微笑みかける。なるべく気弱そうに見えるように眉を下げて。


「お心を引き留められなかったのはわたくしの至らぬ点でしょう」

「お前のせいなものか。あちらから持ちかけられた結婚だ」

「例えそうだとしても、世間としてはわたくしの落ち度でしょう?」


 笑みを深めれば、真意を探るように見つめられるので、更に眉を下げ小さく首を傾げる。

 はあ、と溜め息を吐いて、レオポルトは怒りも吐き出すように言い捨てる。


「……業腹なことだ」

「うふふ、仕方ありませんよ」


 世間とは、醜聞とはそう言うものだ。たとえ非がない者であっても、面白おかしく書きたてられる。


「それに、お父様がわたくしのためにも怒ってくださっているのはわかっていますわ」


 柔らかな声色でそう言って、用意された茶を飲み干す。

 そんなに話し込んだつもりはなかったが、カップの中身は部屋の冷たさが減ってきたのに反比例してか、冷え切っていた。


 そっと立ち上がり、父の様子を伺いながら暇を乞う。


「お話がそれだけならそろそろ参りますわ。きっとお母様もそわそわしていらっしゃるでしょうから」

「……ああ。ノーラを頼む」


 落ち着きを取り戻した父の声に、スカートを持ち上げ膝を折る。そんな淑女らしい完璧な礼をして、書斎を出る扉に向かった。

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