5章「受け継ぐもの」
目の前には、顔を真っ赤にして激怒する男がいた。
男はこちらの胸ぐらをつかんで喚いている。
「ごめんなさい!ごめんなさい!叩かないで!」
恐怖で目に涙をいっぱいにためて懇願するが、男は容赦なく顔を打ち据えてきた。
バチン!という音と鋭い痛み。
口の端が切れたのか、血の味が広がる。
同時に、細い体が床を転がった。
まともに受け身も取れず、全身に痛みが走る。
男から少しでも離れようと、身をよじらせるが、それすらも気に食わなかったようで、男は容赦なく蹴りをいれてきた。
本能的に身を縮めて、体の中心を守るような姿勢をとる。
しかしそれすらも男の怒りの火に油を注いだようだ。
髪を乱暴に鷲掴みにされると、そのまま玄関まで引きずられ、外に放り出されてしまった。
自分が何をしたのいうのだろう。
早く終わった学校から帰ってきて、自室に行こうとしたら呼び止められ、この状況だ。
しばらく呆然と玄関を見つめていたが、今度は別の女性の悲鳴じみたわめき声が聞こえ、逃げるようにその場を後にした。
◆
裸足のまま、行く宛もなくとぼとぼと歩く。
上着もカバンも持ってくることができなかった。
冬も近い秋の空は、黒い雲が立ち込めている。
寒さと、雨の予感にどうしようかと困り果てていると、公園の遊具が目に入った。
近づいて見てみると、ドーム型の遊具があり、大人でも入れそうな空洞があった。
ここなら雨も、多少の寒さもしのげるかもしれない。
そう思い、中に潜り込んだ。
中は薄暗く、少し湿った土の臭いがする。
靴下が土の湿気を吸い濡れてきたが、何も履いていないよりマシだった。
しんとした中、再び考える。
私が何をしたというのか。
打たれた頬に触れると熱を持っているのがわかった。
口の中の出血は止まったのだろうが、まだ血の臭いが
悪いのは、あんな男と再婚した母なのに。
抱えた膝に顔を埋める。
「……お父さん……」
目を閉じて、優しかった、死んだ実の父を思い出す。
そのままウトウトと眠りについた。
◆
寒さで目が覚めた。
どれくらい眠ってしまっただろうか。
ハッとして顔を上げる。
外はまだ日は落ちていないようだが、先程より気温が下がっているように感じた。
身震いして膝を抱えなおす。
夜になれば、あの男は外に出かけていくはずだ。
それまで耐えなければならない。
と、外からポツポツと雨の音が聞こえだした。
ついに降り出した雨に、気分が落ち込む。
そこに小さな子供が駆け込んできた。
お互いに顔を合わせて、驚きの声を上げる。
男の子は一人なのか、他の子供達の気配はない。
気まずそうに外の様子を確認しつつ、こちらのことも気にしている。
外の雨は激しさを増してきた。
これでは外に出るのは無理だなと諦めた様子で、男の子は正面に膝を抱えて座った。
「えっと。おねえさんは、どうしてここにいるの?」
沈黙に耐えられなくなったのか、男の子は不思議そうにそう聞いてきた。
それはそうだ。
本来子供が遊ぶために使う遊具に、男の子からすれば十分大人に見える自分が潜り込んでいるのだから。
外の雨音がさらに強くなる。
「うーん。そうだよね」
少し考えて、
「ここなら、見つからないかなって思ったんだ」
そう言って笑顔を作った。
ちゃんと笑えているかは自信はなかったが。
「かくれんぼ?」
自分の答えに、男の子は子供らしく首を傾げながらそんなことを言う。
まさか、自分の母親の再婚相手のクズ野郎に、暴力を振るわれたあげく家を追い出されたなんて話ができるはずもなく、笑顔を貼り付けたまま「そうだね」と、答えた。
「そと、おれしかいないよ?」
やっぱりこの子は一人で遊んでいたのか。
そのことに少し同情を覚えながら、会話を合わせることにする。
「そっかー。みんな雨降ってきたから帰っちゃったかなぁ」
「じゃあ、ひとりぼっち?」
「そうだね」
「さみしい?」
「今はキミがいてくれるから寂しくないよ」
「そっかー。よかったね」
男の子は、子供らしい眩しい笑顔を見せる。
「フフッ。ぼく、お名前は?」
あまりの無邪気さに、思わず笑みが溢れた。
「おれ?やなぎやせいじ!ごさい!」
元気よく言って手を広げてみせてくる。
「おねえさんは?」
「私?
自分も元気を装って男の子にあわせて答える。
すると、少しはにかみながら
「ミカさん」
と呼ぶ。
5歳児にさん付けで呼ばれるのもなんなので、
「ミカお姉ちゃんでいいよ」
と答えた。
いつの間にか気持ちがほぐれ、自然な笑顔になる。
と、せいじと答えた男の子は指をもじもじさせ、少し照れたように
「ミカおねえちゃんは、あしたもここにくる?」
と、聞いてくる。
一瞬迷ったが、これ以上あの男に会いたくなかったし、暴力を振るわれるのもゴメンだった。
「毎日来るよ」
男の子を見てそう答えると、
「ホント⁉」
と、とても嬉しそうな顔になった。
「うん」
こちらも嬉しくなり、そういって大きく返事をする。
「じゃあ、おれもまいにちくる!」
そう言いながら小指を差し出してきた。
自分もその小さな小指に小指を絡め、ゆーびきーりげーんまーんと二人で歌う。
絡めた小指はとても小さく、温かかった。
外に目をやると、雨脚は弱まり、少し空も明るくなっているようだ。
子供ならもうすぐ帰らないと親に心配されるだろう。
「そろそろ帰らないと、おうちの人心配するんじゃないかな?」
そう言って帰るよう促す。
「うん」
男の子はそう言うと立ち上がる。
「また明日ね」
試しにそう言うと、満面の笑みで振り向き、深々と頷いた。
「うん!バイバイ!」
「バイバイ」
手を振って遊具から出て駆けていく。
安心して帰れるあの子が無性に羨ましかった。
◆
学校では、理由のないいじめの標的だった。
下駄箱や机の中身がゴミ箱に捨てられているのは日常茶飯事。
授業で当てられれば立つだけで嘲笑の的となり、プリントが前から配布されるときなどは「消えちゃえ」「死ねばいいのに」などと囁かれることもしょっちゅうだ。
休み時間になれば当然教室の中に居場所などなく、ただ自分の席で黙って時間がすぎるのを待つだけだった。
トイレに入れば、酷いときなどはバケツの水を上からかけられ、水浸しになることもあった。
その時は家に帰ると、母親に理由も聞かれず、クリーニング代のことでくどくどと怒られた。
体育の授業などは悲惨だ。
チーム分け、組分けではいつも余される。
常に「篠宮菌が伝染る」と、バイキン扱いだ。
一度、どうしてこんなひどいことをするのかと聞いたことがあった。
その時は
「顔がムカつくんだよね」
とひどい理由を言われた。
昼食はいつも一人。
そもそも弁当も、実の父が死んでからは作ってもらったことがない。
自分で毎朝、前の日のおかずの残りとご飯を詰めて持参していた。
それも自分の夕飯を削って用意しなければ、余分な量などはなかった。
それすらも、教室の自分の席で食べようものなら、これみよがしに避けられるか、食べている弁当を奪われ、目の前で捨てられることもある。
仕方なく、普段は誰も使わない旧校舎のトイレでこっそり食べるのが日常となった。
教員に相談したりもした。
しかし、どの教員も「お前が何かしたんだろう」と、相手にはされなかった。
諦めるしかなかった。
◆
公園であの男の子と出会ってから、学校から帰るのが待ち遠しくなった。
帰り道はまっすぐに帰らず、必ず公園に寄る。
公園では、いつも男の子が笑顔で迎えてくれた。
それにどれほど救われたか。
男の子と遊んでいる時間が、唯一何も考えなくていい、心が休まる時間だった。
◆
学校からの帰りが公園への寄り道というコースが定着した頃、突然パタリと男の子が姿を見せなくなった。
初めは風邪でも引いてしまったのかとも思った。
しかしそれが三日……一週間と長くなると、違う心配が心の中に浮かぶ。
もう、この公園で遊ぶことに飽きてしまったのではないか。
あの子はもう、来ないのではないか。
そんな不安が心を支配する。
一人では、特にやることもない。
男の子と最初に出会ったドーム型の遊具の中で、隠れるように過ごす時間が増えた。
もともと、男の子がいようがいまいが、自分が帰れる安全な場所などないのだから。
◆
公園で時間を潰し、夜になって男が酒を飲みに出かけた頃を見計らって帰る。
そんな毎日にも慣れた頃。
その日は、家に帰ると何故かまだ男がいた。
すでに酒が入っているのか、男はいつもよりも赤ら顔で、その上機嫌が悪かった。
すべてが最悪のタイミングで回りだす。
どこか出かけてしまったのか、母親はいない。
男と家で二人きりという状況に、背筋が凍る。
と、一度はリビングから出たものの、男に呼びつけられ、仕方がなく再びリビングに入った。
途端、男に顔を殴られる。
いつもそうだ。
目が気に入らない。
態度が気に入らない。
足音がうるさい。
理由はいつもそんなものだ。
今日は何だというのか。
殴られたあと、顔を伏せて痛みに耐え、なるべく男の逆鱗に触れないよう黙っていると、やはり男は手を伸ばしてきた。
が、その手は顔を殴るでもなく、胸ぐらをつかむでもなく、胸元へと伸びる。
制服の上から胸を弄られ、嫌悪感に思わず男の手をはたき落とした。
やってしまった。
恐怖が一気に全身を支配し、体が硬直する。
しかし男は下卑た笑みを浮かべると、そのままこちらの体を床に引きずり倒し、覆い被さってきた。
何が起こっているのか。
この男は何をしようとしているのか。
制服のボタンを外され、胸元がはだけると同時に、男の手がスカートの中に入ってきて、弄られる。
そこで何をされるのかを理解した。
このままではいけない。
声を荒げ、必死に男を押しのけようと抵抗する。
しかしそれすら男の加虐心を煽るだけで効果はない。
下着に手をかけられ、いよいよもう駄目かと諦めかけたとき。
暴れたときに落ちたのだろう。
昔実の父が、何かの賞を取ったときにもらったガラス製のトロフィーが手に触れた。
それを手に、身体に夢中になった男の頭部に振り下ろす。
痛みに男が怯んだすきに、もう一度。
痛みで動けなくなったところで、男の体から這い出し、もう一度。
頭をめがけて何度も。
そうしているうちに、男は動かなくなった。
気がつくと、床に血が広がり、それがどんどん輪を広げていく。
男はピクリともしない。
はあ、はあ、と肩で息をする。
呆然としていると、玄関が開く音がした。
母親が帰ってきたのだろう。
ああ。
この状況を見たら、なんて言うだろうか。
手に持ったままだった、赤く染まったトロフィーを棚に置き、はだけた胸元を抑えて駆け出す。
廊下で母とすれ違う。
母は何も言わなかったが、リビングの状況を見て悲鳴を上げた。
コートを乱暴に掴み、急ぎ靴を履いて玄関から飛び出し、駆け出す。
◆
がむしゃらに走って、気がつくといつもの公園にいた。
一つだけある街頭が冷たい光を放っている。
当然、公園は誰もいない。
しんと静まり返った中、ベンチに腰を下ろす。
ひんやりと冷たい感触が、衣服越しにも伝わってきた。
自分は、あの男を殺してしまったに違いない。
そう考えると、身体が震えてきた。
起こったことが、頭の中で再生される。
いつもどおりに、少し遅い時間を見計らって帰っただけなのに。
自分の人生はもう、取り返しがつかないだろう。
いや、たとえ取り返しがきいたとして。
あの男が無事だったとして、自分に何が残るのか。
学校ではいじめられ、自分の家すら安全ではない。
どこにも居場所なんてない。
絶望感でいっぱいになり、あふれ出た涙が止まらない。
ふと、芝生の上に木材やロープの束が置かれているのが目に入った。
冬囲いのための道具だろうか。
ふとした考えが頭をよぎった。
このままあのロープで首を吊ってしまえば、何もかも終わらせて、楽になれるのではないか。
それはとても、今までで最高の、良い考えのように感じて、泣いていたことも忘れてふらりと立ち上がる。
置かれていたはしごを木の幹にかけ、なんとか良さそうなところまで登る。
手近にあった丈夫な木の枝と、自分の首の後ろでロープをかた結びにして、ほどけないことを確認して。
そしてそのまま、はしごを蹴って倒すと、空中に身を踊らせた。
木と自分の首に結ばれたロープが、音を立ててピンと張る。
全身の重さが首一か所にかかり、ぐえっと声が漏れる。
強制的に呼吸が止まり、意図せず両手が首を掻き、もがくように足がバタつくが、それもすぐにおさまった。
意識は途切れ、すぐに切り離される。
全ては、終わりを迎えた。
◆
気がつくと、目の前には自分が木の枝からぶら下がっていた。
まだぶらぶらと揺れているが、その四肢はだらりと垂れ下がり、動く気配はない。
足からは液体が垂れ流しになっており、それが自分の尿だと知った。
顔は苦痛に目を見開き、眼球が飛び出さんばかり。
首は体重と重力の影響で引っ張られたためか、妙に伸びている。
喘ぐように開かれた口からは舌がはみだしていた。
これが自分の死に様か。
そう思うと、あまりに滑稽で笑えてきた。
生きている間はあんなに苦しんできたのに、死ぬのはこんなにも一瞬で、あっさりしたものだった。
自由になった。
これで誰も自分をいじめないし、殴らない。
襲われることもない。
居場所はどうかわからないが、少なくとも、人の目を気にする必要はない。
あとはあの世でもどこでも行けばいい。
そう思っていた。
◆
朝が来た。
自分はなんの変化もない。
ぶら下がる自分の死体とともに、ただそこに居た。
昼間近くになって、公園に人が来ると、ぶら下がった自分が発見された。
すぐに警察や救急車などが来て大騒ぎになる。
と、そこにあの男の子の姿を見つけた。
話しかけても大丈夫だろうか?
でも、こんな状況では遊ぶことはできない。
自然と「ごめんね」と口にだすが、誰にも聞こえないだろう。
そう思っていた。
が、男の子が自分の名前を呼び、ぱっと振り返る。
男の子と視線があったその瞬間、彼は驚いた表情とともに息をのんで、その場に倒れてしまった。
子供が急に倒れたことで、現場は更に大騒ぎになる。
新しい救急車が呼ばれ、すぐに男の子は運ばれていった。
どうしてそんなことになったのか。
理解はできなかった。
◆
どのくらい時間が立っただろう。
何故か自分では公園から出ることはできなかった。
どこにも行けず、ただ流れる時間を過ごす。
過ごしているうちに、木枯らしが吹く頃になると、自分と同じような人が、自分と同じように人生を終わらせることが増えた。
はしごに登って、木の枝と首にロープを結んで、ぶら下がる。
そんな光景を、何度も見た。
でも、自分と同じようにさまよう人は現れない。
かわりに、首を吊った木には、片付けられたあとも消えないロープが増えていった。
◆
木の枝がロープで埋め尽くされる頃。
季節は春。
夕暮れ近くに男の子が一人で遊んでいた。
気まぐれに近づくと、男の子は無邪気に遊びに誘ってくれた。
なんて楽しいんだろう。
こんなの、いつ以来だろう。
こんな時間がずっと続けばいい。
そう思った。
なのに。
一人の少年がふらりと現れて、男の子を連れ去ってしまう。
嫌だ。
こんなに楽しいのに。
この時間が終わるのは許さない。
無意識に悲鳴を上げ、少年を追いかける。
自分の足は公園からは出られなかったが、追いかける手は少年の首を掴んだ。
もう離さない。
ほどなくして少年は公園に戻ってきて、ベンチに座る。
心の声が聞こえる。
(俺を殺すのか?)
彼には自分が見えているらしい。
そんな人にそんな酷いことはしない。
でも、自分と一緒にいてほしい。
そう思うと、自然と手は彼の首に力をかけていた。
もう少しで彼も自分と一緒になれる。
その時だった。
彼が何か声を発した途端、自分が吹き飛ばされる。
見ると巨大なトラが、彼と自分との間に立ちふさがっていた。
あんな大きな動物、見たことがない。
驚いていると、それはしゅるりと姿を日本刀に変えた。
気を取り直して再び彼の首めがけて飛びかかる。
と、伸ばした両腕が斬り落とされた。
痛い!
いたいいたい痛いいたいいたい‼
しばらく感じていなかった痛みにのたうち回る。
そうこうしているうちに、自分の体が透け始めた。
あ。自分は消える。
そう理解した時には、世界は真っ暗闇に閉ざされた。
◆
ここはどこだろう?
何だか悪い夢を見ていたような気がする。
周りは真っ暗だ。
でも、遠くに白い光がある。
あそこに行けば、何かあるかもしれない。
そう思い、ゆっくりと歩き出す。
白い空間に着くと、そこには公園によくある、椅子が二つぶら下がったタイプのブランコが一つあるだけだった。
なんとなしにそれに座って、揺られてみる。
すこし懐かしかった。
と、見覚えのある少年が隣のブランコに座った。
ああ、あの男の子だ。
やっと会えた。
しかし、少年と最後に会ったときのことを思い出し、胸が痛くなる。
「ごめんね」
自然とそんな言葉が出た。
少年は、あのときとは違う、少し大人びたふうに「何を謝ることがある?」と言った。
「こんな事になるなんて思わなかった」
「こんな事……?」
自分が木の枝からぶら下がったあの時を思い出して、自嘲気味に言う。
「君がまた来てくれるとも思ってなかったから、うれしくて……」
そう。あの時はそれもあった。
もう、会うこともないと思っていた。
「前に会ったことあったっけ?」
ああ、それだけ時間が経ってしまったのか。
目の前のあの子はもう、ちいさな子供ではないのだから。
でも、忘れられるのは少し、寂しい。
「忘れちゃったよね」
そう言うと、彼は「……ごめん」と目を伏せた。
そんな顔をさせたいわけではない。
そう思い謝る。
「いいの。私が悪いの。私が嫌になって、諦めちゃったから」
そうだ。自分はあの日、全てを諦めたのだ。
だからこんなことになっている。
しかし彼には伝わっていないようで、
「諦めた?何を……」
彼がそう言って首を傾げたその時。
『——るじ!』
誰かが彼を呼ぶ声がする。
「あ?何だこの声」
声の主に覚えがないのか、眉間にシワが寄った。
『目を覚まされよ!』
「うるさいな……」
年相応に苛立ちながら言う彼を、少し微笑ましく思う。
そうだ。
彼にはちゃんと帰る場所、居場所がある。
「……戻ったほうがいいね」
「そうかな?」
自覚がないのだろう。彼はまたもそう言って首を傾げた。
ああ。もうそろそろ時間だ。
なんとなくそんな気持ちになる。
長い時間から開放された感覚が、安堵感になっている。
たとえこのまま消え去るのだとしても。
「私を……消してくれて、ありがとう」
元の世界に戻りかけている彼に、つぶやくように言う。
聞こえただろうか。
彼は最後に振り向いたが。
まあ、どちらでもいい。
もう、何も思い残すことはない。
静かに消えるだけ。
◆
「——っ!!はぁ!はぁ!はぁ!」
目が覚める。
視界には、窓から差し込む柔らかい光といつもの天井。
清司は起き上がると、寝汗でぐっしょりになって肌着や寝間着が肌に張りつく不快感と、未だにおさまらない呼吸と鼓動の速さに顔をしかめた。
一人の少女の苦悩と苦しみ。
死に垣間見た安らぎ。
その後の長い時間。
消える瞬間の想い。
そんなものがないまぜになって、一気にかけめぐった。
同時に、彼女の思いが脳裏をかすめる。
彼女はずっと、独りだった。
生きている間も、死を選んだあとも、ずっと。
そして、この先は誰とも交わることのない
それを彼女に与えてしまった。
どうしょうもない自責の念に駆られ、清司は膝を抱えた。
自然と涙がこぼれてくる。
「俺、あの人を……殺したんだな……」
そう独りごちて。
目覚ましの音がなるまでの短い時間、独りむせび泣いた。
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