未送信のままの君へ

浅野じゅんぺい

未送信のままの君へ

六年ぶりに、君のノートPCを開いた。

葬儀のあと、段ボールに詰めて押し入れにしまい込んだまま、時だけが過ぎていた。

冷たいアルミの感触が、沈んだ時間を指先に伝える。


電源ボタンを押す。

青白い光がゆっくりと部屋に広がり、ファンの低い唸りが胸の奥に響く。

画面に映った疲れ果てた男──それが、今の俺だった。


パスワードは、驚くほど簡単だった。

胸の奥で、微かな音がする。

長く閉ざしていた扉が、軋みながら動き出すような音。


無意識に「下書き」を開く。

そこに、ひとつだけ君の痕跡が残っていた。

──2019年7月17日。



クリックした瞬間、世界が止まった。


『会いたい。もう一度だけ』


宛先は空欄のまま。

それなのに、言葉は息をしていた。

文字の隙間から、夏の潮の匂いと、あの夕暮れの風がこぼれ出す。

胸の奥で、あの頃の声が揺れる。


──どうして送らなかった。

──どうして気づけなかった。


後悔が波のように押し寄せ、息を詰まらせる。

削除キーに置いた指が、動かない。


俺はゆっくりとアドレス欄に、自分の名前を打ち込む。

君が書き残した『会いたい』を、今の俺が受け取るために。


──送信。


小さな音とともに「送信済み」の文字が浮かぶ。

誰にも届かないはずの言葉が、時間を越えて胸に還ってくる。


ファンの音が遠のき、部屋の空気がかすかに温かくなる。

まぶたの裏で、君が笑う。

あの夏の光、潮の匂い、風の音、笑い声が溶け合って蘇る。


──会いたい。もう一度だけ。


その声は、遠くで澄んでいく。

痛みはもう痛みの形をしていない。

名もない温もりとなって、胸の奥で静かに脈を打つ。


──生きて。


確かに、そう聞こえた。

息を吸い込むと、世界がゆっくり動き出す。

六年前と同じ温度の風が、カーテンを揺らした。


やっと少しだけ、呼吸ができた。

──君は、あのとき伝えようとしていたんだね。

今、ようやく受け取れた気がする。













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未送信のままの君へ 浅野じゅんぺい @junpeynovel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る