第一章 鍵

1.不眠症の探偵

事件発生から四十八時間。

​世間は未だに、新都立美術館で起こった「ユリシーズの眼差し」盗難事件の衝撃から立ち直れずにいた。警察庁は異例の捜査本部を設置し、国内外のメディアは連日、この「透明な泥棒」の犯行手口を報じている。

​しかし、事件を追う人々の中で、最も冷静かつ苛立っている男がいた。

​如月 響(きさらぎ ひびき)。

​四十二歳。元警視庁捜査一課のエースであり、現在はその異様な推理力から「不眠の探偵」と呼ばれる私立探偵だ。

​如月は、自宅兼事務所である都心の高層マンションの一室で、淹れたての熱いコーヒーを啜りながら、事件の資料に目を通していた。彼の目の下には、慢性的な睡眠不足を物語る濃い隈が刻まれている。彼が最後にまともに眠ったのは、いつだったか。彼自身、思い出せない。眠れないのは、彼の脳が常に動き続けているからだ。

​「透明な泥棒、か」

​資料の写真を眺め、如月は低い声で呟いた。写真には、ガランとした展示台と、その上に置かれた南京錠が写っている。

​この南京錠が、この事件のすべてを物語っている。あるいは、すべてを覆い隠している。

​警察の捜査報告書は、事態の異常性を克明に記していた。

​侵入経路の皆無:美術館の外壁、屋根、地下すべてに侵入の痕跡なし。

​セキュリティの沈黙:最新鋭の全警備システムが、特定の時間帯に外部からの干渉で完全に停止。ただし、システムログには一切の異常記録なし。

​ケースの消失:強化ガラスケースは、物理的に破壊された痕跡すらなく、文字通り「消滅」していた。

​現場の「贈り物」:胸像の代わりに残された、真鍮製の古い南京錠。製造元不明、鍵穴には何も刺さっていない。

​どれを取っても、常識では考えられない。超常現象か、あるいはハリウッド映画のような特殊部隊の犯行か。世間はその二択で盛り上がっている。

​だが、如月の直感は全く別のことを囁いていた。

​「これは、挑発じゃない」

​彼はペンを取り、報告書の南京錠の写真に、鋭く丸を付けた。

​「これは、メッセージだ。それも、ひどく個人的な」

​彼の目の前に置かれた別のファイルには、警察が事件直後に発見したという、美術館の倉庫に残されていた盗難予告状のコピーが挟まれている。

​予告状は、手書きで、達筆な楷書で書かれていた。

​『ユリシーズの眼差しは、真の知性の元へ帰る。私は鍵を置く。それを見つける者こそ、私の扉を開けられるだろう。』

​日付は犯行の三日前。署名はなく、ただ小さな星のマークが描かれていた。

​「真の知性、鍵、扉…」

​如月は、コーヒーカップを静かにテーブルに戻した。

​「すべてが、この南京錠に繋がっている」

​彼が最も注目したのは、警察が「犯人の置き土産」と結論付けた、この真鍮製の南京錠そのものではなかった。彼が注視したのは、南京錠に刻まれた極めて小さな模様だった。

​それは、まるで古代文字のような、幾何学的で複雑な刻印。肉眼ではただの傷に見えるほど微細なその模様を、彼は十倍に拡大した写真で何度も確認する。

​「これは、ただの南京錠じゃない。これは、謎そのものだ」

​その時、事務所のインターフォンが鳴った。時刻は午前9時。

​こんな時間に訪ねてくる人間は、一人しかいない。

​如月は立ち上がり、静かにドアを開けた。そこに立っていたのは、警視庁捜査一課の若手刑事、五十嵐 梓(いがらし あずさ)だった。彼女は如月の元部下であり、今も彼の唯一の情報源だ。

​「如月さん。私に話すことがありますね」

​五十嵐は、鋭い眼差しで如月を見つめた。彼女の背後には、社会の喧騒が広がり始めている。

​「ああ、ある。だが、座れ。コーヒーでも飲むか?」

​如月は静かに言った。彼の脳裏には、既にこの不可解な事件の、最初の鍵穴が見え始めていた。

​「鍵は、美術館の外にある。そして、犯人は鍵を探している」

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