螺旋の眼差し
リーフレット
プロローグ
プロローグ 深夜の美術館
息を呑むような静寂が、真夜中の新都立美術館を支配していた。
厚い雲に覆われた空は星の光を拒み、街の喧騒すら届かない、隔絶された空間。建物の外壁をなぞる淡いセンサーライトだけが、不規則に続く夜の闇に、冷たい輪郭を与えている。
美術館の最上階、特別展示室。
室温と湿度が厳密に管理されたその部屋の中心には、この夜の主役が鎮座していた。
『ユリシーズの眼差し』。
18世紀イタリアの天才彫刻家、アントニオ・カノーヴァの失われた傑作とされ、近年奇跡的に発見された大理石の胸像だ。ギリシャ神話の英雄オデュッセウス――ラテン語名でユリシーズ――の、遠くを見つめる横顔が彫られている。その眼窩は空洞でありながら、見る者に深い洞察と、形容しがたいほどの知性を感じさせる。その造形美は、発見された瞬間に世界の美術界を震撼させた。
この胸像が、来週から始まる「失われた美の再来」展の目玉として、今日この美術館に運び込まれたのだ。
警備会社のセキュリティ担当者、佐倉 健吾(さくら けんご)は、展示室の入り口に設置されたモニターを凝視していた。彼の今日の任務は、胸像が収められた強化ガラスケース、そしてそれを囲む厳重なレーザーセキュリティの最終確認だ。
「完璧すぎるくらい、完璧だ」
佐倉は一人ごちた。警備システムはトリプルチェックされ、展示室には最新鋭の赤外線・超音波センサーが張り巡らされている。このセキュリティを破れる人間は、世界中を探してもいないだろう。
そう信じていた。
深夜1時17分。
佐倉のデスクのメインモニターが、一瞬、暗転した。
「なんだ?」
システムはすぐに復旧したが、彼の心臓が一瞬跳ねる。電源のノイズか、あるいは単なる接触不良だろう。そう思い直した矢先、ディスプレイに表示されていた特別展示室のリアルタイム映像が、砂嵐に切り替わった。
『異常発生。カメラフィード切断。場所:特別展示室A。』
警報システムが、甲高い電子音を響かせた。佐倉は反射的に立ち上がり、腰のトランシーバーを掴んだ。
「こちら中央管理室!特別展示室Aのカメラが落ちた!警備員は直ちに現場へ急行、状況を確認せよ!」
彼の声が響き終わる前に、次の警告がシステムから発せられた。
『レーザーセキュリティ無効化。』
『室温・湿度コントロール強制停止。』
「馬鹿な……」
佐倉の背筋に、氷が走った。レーザーセキュリティは物理的な切断が不可能なはず。室温コントロールシステムに至っては、警備システムとは別の系統で管理されている。これらが同時に、しかも外部から停止させられただと?
トランシーバーから、他の警備員の混乱した声が聞こえてくる。
佐倉は、迷うことなく管理室を飛び出した。エレベーターを使う余裕はない。非常階段を駆け上がりながら、彼は最悪の事態を想像した。
これはただの侵入ではない。これは、戦争だ。
展示室の扉を蹴破るように開けた瞬間、佐倉の目に飛び込んできた光景は、彼の想像を遥かに超えていた。
部屋の空気は冷え切っている。警報のブザー音が鳴り響く中、展示室の中央。そこにあるはずの強化ガラスケースが、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていた。
粉砕された破片すらない。
そして、その台座の上。
あるべきはずの『ユリシーズの眼差し』。
世界が渇望し、厳重な警備が守っていたはずの大理石の胸像は、完全に消失していた。
その代わりに、胸像が置かれていた場所には、真鍮製の小さな南京錠が一つ、ぽつんと残されていた。
佐倉は茫然自失となった。
世界は、今、静かなる戦慄に包まれた。
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