第4話 油膜の下に、温度がある
【2025年9月13日 村井大樹の作業日誌】
朝八時、市役所地下の会議室は、冷房の風が古いカーペットの埃を舞い上がらせていた。コーヒーの香りが薄く残るテーブルに、佐久間課長が座る。手元には、まだインクの乾ききっていない「18隻解体業者依頼書」。
「村井くん、2025年3月の行政代執行事例、読んでおいた?」
「はい。油漏れによる漁業被害、二次補償が発生した経緯、確認しました」
「今回も同様のリスクがある。法的根拠は整えてある。あとは現場の手配だ。9月17日の検討会までに、見積もりを」
私は頷いた。42歳、中堅の係長。頷くことで、現場の声を蓋してきた十年。佐久間課長の眼鏡が、蛍光灯を反射して白く光る。光の中に、数字が浮かぶ。18隻、7000万円、うち10隻は所有者不明。按分案、月千円、十年。数字は、感情を殺す。
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午後一時、浜島港。潮風が、重油の膜を運んでいる。太陽は高く、老朽化した船体が、ギシ、ギシと鳴る。私は、ヘルメットを押さえて、解体作業現場を見回す。作業員は二人。元請けの「田中船舶解体」は、三ヶ月前に社長が心臓発作で逝き、息子が事業をたたんだ。後継者不在。今は、孫請けの職人を、バイト感覚で集めている。
「村井さん、オイル漏れがひどい」
作業員の一人が、船腹を指差す。古いエンジンオイルが、トタンを伝って滴っている。黒い滴が、海面に輪を広げる。輪は、広がる。広がって、漁師の顔を蝕む。
「作業、一旦止めてくれ」
私は、業者に連絡する。電話の向こうは、息継ぎも曖昧だ。
「予算、追加になります。オイル回収、特殊処理で……おそらく、百万は」
「百万?」
「18隻分で、七千万超えます。市の見積もり、六千八百万じゃ……」
数字が、頭を殴る。六千八百万、七千万、二百万の差。二百万で、高齢者の按分が、月千円から千二百円になる。按分は、生活を圧迫する。圧迫して、誰かが息を詰まらせる。私は、上申書を握りしめた。紙が、しわになる。
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午後四時、市役所に戻る。エレベーターが上昇する間も、頭の計算機は止まらない。二百万をどう捻出するか。一般会計からの繰り入れ? それとも、按分率を上げる? 扉が開く。廊下の突き当たり、市長室のドア。私は、ためらった。ためらって、ノックする。
「上申書です」
市長は、黙って受け取った。黙っている間、私の胸は騒ぐ。騒いで、漁師の顔が浮かぶ。2025年3月の行政代執行、あの日、船がバラバラにされて、漁師は泣いていた。泣きながら、養殖筏を指差していた。筏は、根こそぎ流されていた。流されたのは、筏だけじゃない。生活も、誇りも。
「7千万、収まったのか」
市長の声が、低い。低くて、重い。
「オイル処理で、二百万の追加が」
「按分で賄え」
「高齢者の負担が──」
「数字で考えろ。数字が、市民を守る」
私は、頷いた。頷いて、退出する。退出しながら、数字が耳に残る。数字は、泣かない。でも、数字の向こうで、誰かが泣いている。
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夜八時、自宅のダイニング。冷房は切ってあるが、窓を開けても熱風が入る。妻は風呂場で、娘の髪を乾かす。私は、ビールを一口。喉が、熱い。
「お父さん、海はきれいになる?」
小学五年の娘が、レンゲを止めて訊く。目は真剣だ。学校の自由研究で、海水浴場の油膜を調べているらしい。
「なるよ」
私は答えた。答えて、視線をそらす。そらした先に、孫の写真がある。まだ孫はいない。娘は小学五年、家族計画は十年先。それでも、写真立てがある。銀のフレーム、中身は空白。空白に、私の顔が映る。映って、油の膜がかかる。
スマートフォンが震える。中原若手職員からだ。
「木下PTA役員が、また相談してきました。『子どもの海水浴場が心配』と」
「対応は?」
「数字では説明しきれない、と」
私は、電話を切った。切って、ベランダに出る。港の方向に、ぽつりと灯り。油漏れの警告灯だ。灯りが、またたく。またたいて、数字を嘲笑う。七千万、二百万、月千円、十年。
市民に寄り添うことの意味は、数字の向こう側に「人間の温度」を見つけることだ。
温度は、冷たい油膜の上にも、仄かに浮かぶ。
私は、灯りを見つめたまま、カーテンを引かなかった。引かずに、明日の現場を思う。明日も、数字は変わらない。でも、温度は、少しでも上がればいい。上がって、誰かの胸が、溶ければいい。
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