第3話 法の行間に、海が見える

【2025年9月12日 政策担当課長 佐久間由紀】


 朝七時半、市役所のエレベーターは誰もいなかった。四階の政策課へ向かう廊下の窓から、伊勢湾が灰色に光っていた。台風一過のうねりが、まだ収まらない。私は書類ホルダーを抱え直し、鍵を開けた自室でパソコンを起動した。画面の向こうに、9月17日の検討会資料が白く広がる。タイトルはまだ仮──「放置船条例(案) 所有者不明船の所有権放棄手続き規程」。


 キーボードを打ちながら、指が震える。条例案第5条第2項。「所有者が判明しない老朽船について、市長は三月を限りに公告し、期限満了後に所有権を放棄させるものとする」──法の文言は冷たく、画面に映る私の顔もまた冷たかった。パソコンの横に積まれた調書、「浜島港放置船実態調査」には、54隻の船名、最終航行日、所有者欄の空白が並ぶ。空白の数だけ、重さが増す。


「課長、千葉県の事例、今朝届きました」


 ドアをノックせずに入ってきたのは村井係長だ。42歳、二児の父で、私の下では七年目になる。手にしているのは、船橋市の7300万円撤去費用の内訳表。流失船が防波堤を破損、復旧に追加で四千万。最下部に、赤字で「請求不能額」と記されている。


「村井くん、船橋市は結局、幾ら回収できた?」


「所有者特定分で約三割。残りは市債で補てん、とのことです。利率1.7%、二十年償還で──」


「利息だけで二千万超か」


 私は息を吐いた。冷房がききすぎていて、吐息も白く見えた。画面の文字がにじむ。数字は、泣かない。


---


 午後一時、第二会議室。高梨隣接部局課長と向かい合う。彼は46歳、法的手続きのプロだ。ネクタイの柄が毎日違うのが自慢で、今日は緑に白のストライプ、まるでトンボの複眼みたいだ。


「佐久間さん、所有権放棄の公告期間、三月では短い」高梨は、私が作成した草案を指差す。「民法で動産の取得時効は十年。三月で勝手に処分したら、国賠請求されるかもしれん」


「しかし、三月を超えれば次の台風シーズン。去年の16号は9月29日に上陸した」


「法の理屈と現場の危険、どちらを取る?」


 私は言葉に詰まった。両方だ、とは言えない。私は官僚だから、数字で答えなければならない。54隻、撤去費用7000万、うち所有者不明18隻で2300万。2300万を32世帯で按分すれば月千円、十年。頭の計算機が回る。高梨は、私の沈黙を待っていた。待つことも、彼の仕事だ。


「四日市港の共同管理、参考にさせてもらっています」私は言った。「あちらは『公益法人への無償譲渡』という形で行政リスクを逃れた」


「無償譲渡後の維持管理費、結局市が出しているそうですよ。表ではゼロ、裏で五千万」高梨は眉を上げない。「数字は綺麗に見せるもんです」


 私は、ペンを置いた。ペン先が紙を裂きそうだ。会議室の窓の外、サザンカの蕾が風に揺れている。もうすぐ咲く。咲いたら、次は散る。散ることを前提に、蕾は開くのだろうか。


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 午後三時半、現場へ。市役所のヴァンで浜島港に着くと、潮風が油の膜を運んでいる。太陽は西に傾き、錆びた船体が夕日に照らされて、まるで出血しているように見えた。18隻の放置船は、浮かぶ死体のように横たわる。FRPの剥がれた繊維が、風で鳴る。ギイ、ギイ。耳障りな、生きている証しだ。


「また来たのかい」


 声をかけてきたのは、漁師の田中さん。68歳、牡蠣養殖が生業だ。手には折れた竹竿。三年前、放置船の錨チェーンが流れ、養殖筏を根こそぎ巻き込んだ。保険は利かない。船の所有者は不明。結局、自己負担で筏を再設置したが、牡蠣の稚貝は二度と戻らなかった。


「2025年3月の行政代執行、あれで村上さんの船が処分された」田中さんは、遠くを見る。「村上さん、ガンで逝ったよ。船がなきゃ、生きる気、失せるんだよ」


 私は、手帳を開いた。法的根拠、所有権放棄、公告、三月。そんな言葉が、並ぶ。並べても、重さは変わらない。田中さんの背中が、小さく見える。夕陽に伸びる影が、波に消える。


「条例、作れるかい」


 問いかけに、私は頷いた。頷いて、胸が痛む。条例など、影で泣いている人を救えない。でも、影を照らす光にもなれない。私は、ただの課長で、法の穴を埋めるのが仕事だ。穴を埋めても、そこに立つ人の足元まで、固められない。


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 夜八時、自宅の書斎。蛍光灯がチラつく。妻は風呂場で娘の髪を乾かす音を立てている。机の上には、委員会傍聴者向けの説明資料。見出しはやはり「災害リスクの早期排除」。傍聴席には、木下PTA役員が来るという。彼女は主婦で、二児の母だ。海水浴場に放置船が流れつくのを懸念し、署名を集めてきた。署名用紙の1枚目、子ども文字で「海をきれいにして」と書いてある。


 私は、孫の写真を取った。まだ孫はいない。娘は中学三年、家族計画など十年先だ。それでも、机の上に写真立てがある。銀のフレーム、中身は空白。将来、そこに映る顔が、油の浮く海で遊ばないように、と私は思う。思うだけで、胸が締めつけられる。


 資料の上に、7000万円の内訳表。


 18隻のうち10隻が所有者不明。


 10世帯が高齢単身。


 月千円の按分で、十年。


 ──数字は、泣かない。私も、泣かない。泣かないように、数字を並べる。


 ふと、画面の明かりが目に沁みる。最後のページに、まだ文言が残っている。「所有権放棄手続き」──その下に、小さく「※人権配慮要」と書き添えた。削除しようとカーソルを合わせたが、指が止まる。人権、だ。誰の人権? 所有者不明のまま朽ちる船の? それを避ける高齢者の? 海水浴場で遊ぶ子どもの? 署名用紙の子ども文字が、目に焼きつく。


 私は、削除をやめた。カーソルを動かし、一行追加した。


「本条項は、人命と生活を守るための暫定措置とする」


 暫定、とは書いた。だが、暫定でも、明日を生きる人の今日を、守れるなら。私は、銀のフレームにちょっと触れた。冷たい。十年後、孫がこの写真を見たとき、海が息をしているといい。息をして、誰かの足元を、少しでも固めているといい。


 条例とは、数字で測れない「人間の尊厳」を守るための、せまい道だ。


 せまくても、誰かが歩かなければ、次は開かれない。


 私は、今日も鍵を閉めて、廊下へ出る。明かりを消した書斎に、銀のフレームだけが、静かに息をしている。

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