第11話 余白の書き手
――朝の風が、白聖堂を抜けた。
祈りの鐘は鳴らない。もう、それを鳴らす必要がなくなったからだ。
聖都ルーメンは、ゆっくりと息をしていた。
街の壁は真白ではなくなり、淡い色が重ねられている。
職人たちが好きな色を塗り、子どもたちが指で模様を描き、
信徒たちはその上に“祈りではなく言葉”を書き残していた。
――〈ここで笑った〉
――〈明日もこの店を開けます〉
――〈風がきれいだ〉
それらは誰に見せるためでもなく、
ただ「残しておきたい」と思った瞬間の筆跡だった。
世界は、祈ることから“書くこと”へと移り変わっていた。
*
レオンは、塔の上から街を見下ろしていた。
風に髪が揺れる。
〈保存庫〉の印は、もはや光を放っていなかった。
だが、それでも心の奥に「記録」は在ると分かる。
――ページを開かずとも、世界そのものが記録になったのだ。
背後から足音。
セリスが現れた。
白い装束の裾を押さえながら、穏やかな笑みを浮かべる。
「新しい祈りの形式が決まりました」
「祈りの形式?」
「ええ。剣も経典もいらない。
“今日、何を見たか”を一行書く。それが新しい祈りです」
レオンは小さく笑った。
「ずいぶん軽くなったな」
「重い祈りはもう、誰かを縛るだけですから」
セリスは小さな羊皮紙を取り出し、そこに筆を走らせた。
――〈今日の空は、まだ書きかけ〉
「……これでいいんです。祈りは、報告みたいでいい」
風が彼女の髪を撫で、紙を少しだけ揺らした。
レオンはその紙を〈保存庫〉の余白に滑らせるように置いた。
光は出ない。ただ、紙がそこに“収まる”。
それで十分だった。
*
白聖堂の外、古い巡礼街道の入口。
リュナは小さな畑に膝をついていた。
土に指を入れ、種を植える。
その種は、神代の封印庫の奥にあった“終末の草”――
死者の地を浄化すると言われ、長く恐れられてきた植物だ。
「ねえ、兄さん」
リュナは背を向けたまま言った。
「消すって、悪いことばかりじゃないんだね」
レオンは微笑んだ。
「そうだな。土だって、一度すべてを飲み込んでから芽を出す」
リュナは手についた土を払った。
その指先には、虚無保存庫の印がうっすらと残っている。
けれど、もはや冷たい光は宿っていない。
「私はもう、“削除者”じゃない。……“整え役”でいいや」
「それでいい。お前が整えた余白に、人が言葉を書くだろう」
「じゃあ、兄さんは?」
「俺は……その言葉を読むさ。誰かの物語を、誰かの目線で」
風が吹いた。
畑の上の土が舞い、陽の光の中できらめいた。
その粒子は、かつての“記録の光”と同じ色をしていた。
*
夕刻。
三人は再び塔の上に集まった。
太陽は傾き、街全体が柔らかな橙に染まる。
祈りではなく、暮らしの音が響く。
パン屋の鐘。鍛冶の音。子どもの笑い声。
「この音、好きだな」
セリスが言う。
リュナがうなずく。
「静寂より、ずっと優しい」
レオンは二人を見つめた。
「……なあ」
「うん?」
「最終層の扉を開いたとき、神々は“記録者よ、余白を恐れるな”と言った。
あの言葉、ずっと考えてる」
リュナが少し首を傾げる。
セリスが静かに微笑む。
「余白って、たぶん“生きる時間”のことなんでしょうね」
「書いてる行と行の間にある、息をつく場所」
「その間に、私たちは泣いたり笑ったりする」
レオンは空を見上げた。
雲がゆっくりと形を変え、まるで筆跡のように流れていく。
「……ああ。
俺たちは行の間に生まれて、行の間で死んでいく。
でも、その間を“書き続ける”ことが生きるってことなんだな」
三人の視線が、同じ一点で交わる。
そこに、再構築の光がかすかに残っていた。
淡く、けれど確かに。
それはもう、神の光ではない。
――人の、手の光だ。
*
夜が来る。
街のあちこちで灯りがともる。
誰かが歌い、誰かが本を読む。
そして誰かが、小さな紙に一行だけ書き残す。
――〈今日も、世界は続いている〉
その一行が、風に乗って夜空を渡る。
光の帯が再び現れ、星々を繋いでいく。
まるで、空そのものが“新しい頁”のように。
リュナが笑う。
「兄さん、今夜も誰かが書いてるね」
セリスが応じる。
「ええ。そして、誰かがそれを読む」
レオンはゆっくりと頷いた。
「記録は終わらない。祈りも、虚無も、同じ行に並んでる。
――そして、俺たちはその“余白の書き手”だ」
風が頬を撫でる。
空の光が少し強まり、三人の影をひとつに結んだ。
やがて、夜が街を包む。
だが、どこかで灯は絶えない。
新しい物語が、静かに書き始められていた。
終章 ――再構築のあとに
神々の頁が閉じても、世界は終わらなかった。
むしろ、初めて“始まった”のだ。
祈りは言葉になり、虚無は余白となり、記録は誰かの手に渡った。
それが、この世界の“真の継承”。
どこかで、誰かが書き始める。
「ここに、祈りがあった」と。
そしてまた、次の誰かが行を重ねる。
――“ここに、生きた人がいた”と。
世界はそれを、静かに読み続ける。
〈完〉
最弱スキル〈保存庫〉を笑われ追放されたけど、中に神代の秘宝が眠ってました 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_
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