第11話 余白の書き手

 ――朝の風が、白聖堂を抜けた。

 祈りの鐘は鳴らない。もう、それを鳴らす必要がなくなったからだ。


 聖都ルーメンは、ゆっくりと息をしていた。

 街の壁は真白ではなくなり、淡い色が重ねられている。

 職人たちが好きな色を塗り、子どもたちが指で模様を描き、

 信徒たちはその上に“祈りではなく言葉”を書き残していた。


 ――〈ここで笑った〉

 ――〈明日もこの店を開けます〉

 ――〈風がきれいだ〉


 それらは誰に見せるためでもなく、

 ただ「残しておきたい」と思った瞬間の筆跡だった。

 世界は、祈ることから“書くこと”へと移り変わっていた。



 レオンは、塔の上から街を見下ろしていた。

 風に髪が揺れる。

 〈保存庫〉の印は、もはや光を放っていなかった。

 だが、それでも心の奥に「記録」は在ると分かる。

 ――ページを開かずとも、世界そのものが記録になったのだ。


 背後から足音。

 セリスが現れた。

 白い装束の裾を押さえながら、穏やかな笑みを浮かべる。


「新しい祈りの形式が決まりました」

「祈りの形式?」

「ええ。剣も経典もいらない。

 “今日、何を見たか”を一行書く。それが新しい祈りです」


 レオンは小さく笑った。

 「ずいぶん軽くなったな」

 「重い祈りはもう、誰かを縛るだけですから」


 セリスは小さな羊皮紙を取り出し、そこに筆を走らせた。

 ――〈今日の空は、まだ書きかけ〉

 「……これでいいんです。祈りは、報告みたいでいい」


 風が彼女の髪を撫で、紙を少しだけ揺らした。

 レオンはその紙を〈保存庫〉の余白に滑らせるように置いた。

 光は出ない。ただ、紙がそこに“収まる”。

 それで十分だった。



 白聖堂の外、古い巡礼街道の入口。

 リュナは小さな畑に膝をついていた。

 土に指を入れ、種を植える。

 その種は、神代の封印庫の奥にあった“終末の草”――

 死者の地を浄化すると言われ、長く恐れられてきた植物だ。


「ねえ、兄さん」

 リュナは背を向けたまま言った。

 「消すって、悪いことばかりじゃないんだね」

 レオンは微笑んだ。

 「そうだな。土だって、一度すべてを飲み込んでから芽を出す」


 リュナは手についた土を払った。

 その指先には、虚無保存庫の印がうっすらと残っている。

 けれど、もはや冷たい光は宿っていない。

 「私はもう、“削除者”じゃない。……“整え役”でいいや」

 「それでいい。お前が整えた余白に、人が言葉を書くだろう」

 「じゃあ、兄さんは?」

 「俺は……その言葉を読むさ。誰かの物語を、誰かの目線で」


 風が吹いた。

 畑の上の土が舞い、陽の光の中できらめいた。

 その粒子は、かつての“記録の光”と同じ色をしていた。



 夕刻。

 三人は再び塔の上に集まった。

 太陽は傾き、街全体が柔らかな橙に染まる。

 祈りではなく、暮らしの音が響く。

 パン屋の鐘。鍛冶の音。子どもの笑い声。


「この音、好きだな」

 セリスが言う。

 リュナがうなずく。

 「静寂より、ずっと優しい」


 レオンは二人を見つめた。

 「……なあ」

 「うん?」

 「最終層の扉を開いたとき、神々は“記録者よ、余白を恐れるな”と言った。

  あの言葉、ずっと考えてる」


 リュナが少し首を傾げる。

 セリスが静かに微笑む。


「余白って、たぶん“生きる時間”のことなんでしょうね」

 「書いてる行と行の間にある、息をつく場所」

 「その間に、私たちは泣いたり笑ったりする」


 レオンは空を見上げた。

 雲がゆっくりと形を変え、まるで筆跡のように流れていく。

 「……ああ。

  俺たちは行の間に生まれて、行の間で死んでいく。

  でも、その間を“書き続ける”ことが生きるってことなんだな」


 三人の視線が、同じ一点で交わる。

 そこに、再構築の光がかすかに残っていた。

 淡く、けれど確かに。

 それはもう、神の光ではない。

 ――人の、手の光だ。



 夜が来る。

 街のあちこちで灯りがともる。

 誰かが歌い、誰かが本を読む。

 そして誰かが、小さな紙に一行だけ書き残す。


 ――〈今日も、世界は続いている〉


 その一行が、風に乗って夜空を渡る。

 光の帯が再び現れ、星々を繋いでいく。

 まるで、空そのものが“新しい頁”のように。


 リュナが笑う。

 「兄さん、今夜も誰かが書いてるね」

 セリスが応じる。

 「ええ。そして、誰かがそれを読む」


 レオンはゆっくりと頷いた。

 「記録は終わらない。祈りも、虚無も、同じ行に並んでる。

  ――そして、俺たちはその“余白の書き手”だ」


 風が頬を撫でる。

 空の光が少し強まり、三人の影をひとつに結んだ。


 やがて、夜が街を包む。

 だが、どこかで灯は絶えない。

 新しい物語が、静かに書き始められていた。


終章 ――再構築のあとに


 神々の頁が閉じても、世界は終わらなかった。

 むしろ、初めて“始まった”のだ。


 祈りは言葉になり、虚無は余白となり、記録は誰かの手に渡った。

 それが、この世界の“真の継承”。


 どこかで、誰かが書き始める。

 「ここに、祈りがあった」と。


 そしてまた、次の誰かが行を重ねる。

 ――“ここに、生きた人がいた”と。


 世界はそれを、静かに読み続ける。


〈完〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最弱スキル〈保存庫〉を笑われ追放されたけど、中に神代の秘宝が眠ってました 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ