抜け忍にはちょうどいい頃

石田空

夜桜だけが全てを知っている

 その日は細い月だった。

 私はそこを駆けていく。

 荒れ地は走りづらいものの、太い梢を目がけて飛べば、ちょうどよかった。

 望月だったら明る過ぎて、朔だったら暗過ぎて、思うようには逃げられない。

 私が里を抜けようとするのを導いてくれたのは、山桜だった。

 望月だったら明る過ぎただろう。朔だったら暗過ぎただろう。細い月に照らされた山桜は艶めかしく、それでいて花明かりとして暗い森を照らしてくれていた。

 私は、里を抜けるのだ。


****


 私の里は忍びの里であり、それぞれの城に人を送っている。

 そうは言っても、戦働きで大した手柄の取れる里ではなく、ほとんど密偵としての役割ばかりを任されていた。

 その里を抜けようと決意したのは他でもない。

 とある城と敵対したくなかったからだ。

 私は里が受けた依頼で、しばらくの間旅一座の一員として、城下町に滞在していたことがある。

 そこは大きな国ではなく、それでも下から上までギラギラしている小さな国ではなかった。その国は、この戦の時代でも皆がのほほんとして生きていた。要は治安がよかったのだ。

 そこでこの国の次期党首に出会ったのだ。

 彼は惚れ惚れとする男前でありながら、とにかく文を書くのが上手かった。彼の速筆は凄まじく、彼は外交を持って戦をする前に全ての準備を整えて、この国の守りを固めていたのだ。

 なるほど、治安がよければ民意もよく、民意もよければ士気も高まる。

 この国が平和な訳だった。

 私はそれに感心して帰ろうとしたときだった。うっかりと櫛を落としてしまったのだ。


「あっ……」


 それは母にもらったものだった。私はいつ結婚できるかわからぬ身だし、忍びである以上、いつ死ぬともわからぬ身だ。だから、せめて櫛で身だしなみだけは整えておけというのが母の言葉だったが。

 それを拾ってくれたのが、若だったのだ。


「落としましたよ。おや、この辺りだと見ぬ身だな」

「あ……」


 全然偉ぶらない彼は、私を見ても不思議と気配は穏やかなままだった。

 若は続けた。


「ああ、旅芸人一座の方! 昨今は戦のせいで、皆心が擦れていました。見事癒やされましたよ。ありがとう」

「あ……あ……」


 その人は人として正しく、私に対して当たり前なことしか言っていなかった。しかし、それは私によく効いたのだ。

 私は忍びであり、人扱いされないのが当たり前だった。

 なにかあったら毒を飲んで死ね。実際に父も母も、密偵の際に正体が割れかけたとき、毒を飲んで自害している。

 女だったら体を売れ。女の忍びは情報を抜くためだったら、未婚だろうが既婚だろうが、体を張れというのが常套句だった。

 だからこそ、遠くから村娘が許嫁と親しげにしているのを、私は遠巻きに眺めていたのだ。

 忍びは人の心を持たぬもの。刃で心を殺すもの。

 そう学んでいたために、私は若の言葉で決壊してしまったのだ。

 だからこそ。


「この国の襲撃をかけることとする」


 里の決定に、私は従うことができなかったのだ。


****


「この裏切り者が! 里を抜けて生きていられると思っているのか!?」

「あの国は、どこの大国にも加担していない! どうしてこの国を滅ぼすのですか!?」

「大国のためだ! 我らは大国の庇護下で生きているのだからなあ!」

「なら私は抜けます! あのなだらかな国を滅ぼしてたまりますか!」


 里抜けを、里は決して許さない。当然ながら追っ手が迫ってきたが、私は胸元にしまい込んだ櫛の感触を覚えていた。

 母の形見であり、私と若を引き合わせてくれた宝物。

 私は若に、このことを伝えなければいけない。

 生きて生きて生きて。あの国がなだらかなままでいるようにと。


 私の決意は、山桜だけが知っていていい。


<了>

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抜け忍にはちょうどいい頃 石田空 @soraisida

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