図書館の女神

@mikoto7772025

第1話 1-1


皆さんは、ご存じでしょうか。

ある図書館には、女神さまがいらっしゃるということを…。

実は、その女神さまが、私たち一人一人の今に必要な本を選んでくださるのです。

その本は、私たちの心の奥深くへ浸み込み魂の成長を促すのでございます。

本は、あなたを助けます。






私は、この図書館の館長。

この図書館に勤めて、はや三十年になります。

「ハァー、私もあと5年で定年かぁ…。」

 少し前までは定年制度が60歳までだったのに、5年も延びちゃうなんてね。まったく、いいんだか、悪いんだか…。

いつの間にか、またワンサイズ上がってしまった藍色の制服のベストとスカートを、白い丸襟のブラウスの上へ身に着けると、ほこりをササッと払う。

(何だか…また二の腕と、お腹周りがきつくなってきちゃった気がする…。)

 ふと顔を上げると、開けたロッカーの内扉に付属されている小さな鏡の中に見慣れた自分の顔がいつものように映る。

そこには、若いころはシャープだった目尻も頬も輪郭も、いつしか重力にすっかり軍配を許してしまったようないつもの自分がいた。

 強いて褒めるとするなら善人面には見えるかもしれないな、と思い直す。

おもむろに自分の頬をパンパンと両手で叩き、肩のあたりまで伸びている黒く染めたくせ毛を首の後ろで一つに束ね、太めの黒い輪ゴムでキュッと結んでからバタンとロッカーを閉じた。

着替えを終えた私は更衣室を後にし、古びた従業員専用廊下を歩きながら、いつものように自分の手を眺める。

(よし、今日も手だけは若いわ!)

 そのふっくらとした手の甲には、シミやしわも全くない。顔とは違って60才にしては珍しく若い手だと思う。

 それには、図書館勤務ということが功を奏していることは確かで、いつしかそれが自分のモチベーションを上げる行為となり、それに伴い人一倍お手入れもするようになった。

 ハンドクリームは常にポケットに入れていて、外出時にはUⅤカット手袋も愛用している。

 特に、この真夏の紫外線は大敵だ。特に、近頃の猛暑は…。ともあれ、今朝もルーティーンのようにその成果を確認して少しにやける。

今度は、手のひらを反して見る。

実は、両方の手のひらにの中央には、横一文字に〝ますかけ線〟が走っている。かの徳川家康、豊臣秀吉などもそれがあったとされる天下取りの手相なのだ、といつかの占い師に言われた。

 自分にはそれほどの力量はあるはずもないと思うのだけど、それでも喜ばしいことに違いない。

手だけは、自分の姿形の中では一番誇れるものなのだから…。あ、あともう一つあった!「福耳ですね」と結構な確率で言ってもらえること。

そして、いつもの ルーティーンを終えた私は、そのバックヤードを抜けて図書室内へ入る。

 そこは、ほんとうに何とも言えない癒しの香りで満たされている。

 本に使用されているインクや紙、装丁と、それに関わる人々のそれぞれの匂い、その時代と共に変化して行った時間と空間の香りなど、様々のものが調和し、この図書館の独特な香りを生み出している。

 それが何とも言えず幸せな気分にさせてくれるわ。






《館長さん、おはようございます。今朝もとても素敵な波動と周波数でいらっしゃって…とても素晴らしいです。》

 人間には聞こえるはずもない。もちろん人間である館長の耳にも届くことはない「背世界」の住人の優しい声がそっと囁く。

 背世界というのは、つまり人間には見ることのできない世界。

 地上の人間世界とは一線を画した空間世界と言えば察しの良い方はお分かりになるだろう。

 それは、その私たちが存在する背後のいたるところにあるごく身近な世界。

 平たく言えば、人間が形として認識できる物質と物質との間にある目に見えない世界、例えば空気が存在する空間とか、精神世界や私たちの「心」などというような目に見えない意識世界のことである。

 ここでは、その世界のことを一纏めにして「背世界」と呼ぶことにしよう。

 背世界にも人間界と同じように様々な住人がいる。良いものもあれば、また悪いものもある。理論的に良いものは軽く、悪いものは重たいものである。だから、「心」はできるだけ軽やかに保ちたいものだ。

 さて、話を戻しましょう。先ほどの優しい声の主も、この「背世界」の住人の一人であります。

 先ほどの優しい声の主は、ミュゼットと言う。再び空間に、まるでハープを奏でているような優しい声が響き出す。

 《館長さんの波動…いわゆるオーラは常に神々しい白色でございます。周波数も宇宙レベル、宇宙と即座につながることのできる愛と調和の周波数なのでございます。》

 ミュゼットは、唯一、全種類の波動の色の光を司ることのできる女神のような存在で、私たち人間を更なる高みへと導くために「気づき」を与えてくれるありがたーい存在なのだ。

 別名、図書館の女神とは「見えない世界での彼女」のこと。

 おっと失礼いたしました…。先ほどからペラペラと…。

 わたくしは、言わばこの「背世界」のガイドのようなものでございます。

 これから、皆様にこの見えない世界、ここではその世界を「背世界」と申しますが、すなわち見える世界のすぐ背後に存在する世界と言う意味で、わたくしはそちらのご案内をさせていただこうと思います。

 え?じゃあ、お前は誰なんだ、って?そうですねぇ…皆様の疑問はもっともではございますが…ま、それは、皆様のご想像にお任せしたいと存じます。それでは、わたくしは一先ずこのあたりで…。






「館長!おはようございます。」

 「今朝も早いのね、広海ひろみくん!おはよう。あらっ、また下の名前で呼んじゃった…。星野ほしのくん、おはよう。」

彼は、ここで働く私を含め8名の中で唯一の男性司書だ。イケメンでシュッとした二八才の若い彼は、白いカッターシャツと藍色のズボンという簡素な制服を着ていても様になって見える。

 カウンターへ入り、テキパキとパソコンを立ち上げて、開館準備を進めながら私に笑顔を向けてくれた。

「あははっ、別にわざわざ言い直さなくても…。そんなのどっちでもいいですよ。」

意志の強そうな黒目勝ちの大きな二つの彼の瞳が、私を親しげに見上げる。

「やっぱりね、どんなに親しくっても、仕事中はね…。星野くんの方がいいと思うのよ。」

「まぁ、そうなんでしょうね。師匠と弟子の間柄としても。」

「なあに、それ?私は何の師匠なの?」

「だからぁ!館長としても、人生の先輩としても、ですよ。いつも言ってるじゃないですかぁ。」

「そうだっけ?別に大した事してないのに…。」

「いえいえ!僕は、みなみ館長のことを子供の頃から尊敬しています。いつか館長みたいになりたいって司書を目指したんですから。」

「ありがとう。こんなちっぽけな街の、古びた図書館の館長だけどね。そう言ってもらえて嬉しいわ。けど、ここがあの…、隣町の駅前に出来たオシャレで今風のどこやらのデザイナーが設計したって言う県立図書館だったらもっと良かったでしょうに…。」

そう言う私の言葉を遮るように、彼はぶんぶん頭を振りながら答える。

「あれは…ハッキリ言って、見かけ倒しですよー。確かに、蔵書数は約三百万冊で、うちの約5倍です。閲覧席も、うちは約三十席ばかりなのに、向こうさんは桁違いで…、Wi-Fiもあるし、PCの持ち込みも出来て、しかも、2階にはカフェコーナー!、おまけに隣接して大型ショッピングモールまである。だけど、それだけ《・・・・》なんです。」

「ん?それだけ?」

「だって、ここにはみなみ館長がいますから。」

「あははっ、星野くんったら、大袈裟ねぇ。」

「いえいえ、大袈裟ではないです、ぜんぜん。館長の特殊能力・・・・は大したもんです。」

「そんなんじゃないわよ。ただ、本が好きで、職業柄、色んな本を読んで…そんで、年を食ってるって、だけの話しよ。」

「いや…僕にはそうは思えません。その人にピッタリの本を選んであげられるじゃないですか。」

「まぁ、頼まれた時だけだけどね。いろんな話を聞いてそれじゃあ…、って、お薦めすることはあるけど…。」

「それがすごいことです。誰にでも出来るもんじゃないです。僕と母なんかは、もうほぼほぼ信者ですからね。」

「信者ぁ?あははははっ…。さぁ、冗談はさておき、そろそろ開館時間よ!ドアを開けましょう。今日は、来場者が多いといいわね。」

「はい!了解です!」

広海君は、警官が敬礼するようなリアクションを残し、カウンターを離れて出入口の開場へ小走りで向かった。

彼の背に向かって、私は済まなさそうに内心を打ち明ける。

(本当はね…、それは、私じゃないのよ。それは、ほとんどが女神さまの仕業なの。女神さまが、その人にピッタリな本を選んでくださるのよ。私が選ぶこともあるにはあるけれど…、どちらかというと、私はそのお手伝いをしているという方が正しいかもね。)

広海くんが開館準備を整えて、両開きのドアの出入口を開けた途端、それを待ち構えていたように早速手をつないだ親子が入って来て、男の子の元気な声が館内に響く。

「ママぁ、この図書館、古くてちっちゃいからヤダよう!電車に乗って、あの大きくてキレイな図書館へ行こうよぉ!」

半袖半ズボンのやんちゃそうな小学生ぐらいの男の子が、つないだ母親の手を引っ張りながらそう何度も叫んでいる。お母さんの方は、ポニーテールで白いTシャツの上に黒くて長いワンピースを着ている。

(スラっとした美人さんね。ちょっと疲れているみたいだけど、昨晩テレビで見た何とかって言う女優さんみたいに可愛いわ。)

「シィ!直樹!ここは図書館よ。大きな声を出しちゃダメでしょ!そりゃあ、ママだって、あっちの図書館へ行きたかったけど…、今日は時間がないんだから仕方ないのよ。」

と、お母さんの小さいけど良く通る声が聞こえてきた。そうよね、誰だってそう思うわよね…。あっちの綺麗な図書館へ行きたいわよね。今年の春にその図書館が出来てから、ここは閑古鳥が鳴いてるもの…。

 9時の開館と同時に来館者が訪れるなんて、近ごろじゃお年寄り以外には珍しい話しよ。

「ヤダヤダヤダ、あっちの図書館に行きたいよぉ!」

「もう!わがまま言わないの!」

見たところまだ二十代くらいの若い母親は、嫌がる我が子の手を無理やり引っ張って、奥の児童書のあるコーナーへずんずんと進んで行く。

「まったく…、どうして直樹はママの言うことを聞かないの。ヒロ君が生まれてからずっとこの調子でしょ。お《・》ちゃんなんだから《・・・・・・・・》我慢しなさい!」

「やだよ!僕はお兄ちゃんになんかなりたくなかったよ!」

と、押し問答を続ける二人の背中で、それぞれに背負ったリュックが揺れる。

するとその時、奥にある学校の運動場側の教室にあるような大きな窓の幾つかある内の一つから、宝石のようにキラキラと無数に輝く七色の光の素粒子がおごそかに入って来た。

 窓にかけられたレースのカーテンが風もないのにゆらゆらと螺旋を描くように静かに揺れ出す…。

(あっ、早速、お出ましだわ…)。

と、私は即座にそう感じるが、たぶん、その現象は、私以外の圧倒的大多数の人間にはその光の粒は認識することが出来ず〝朝日が眩しいな〟くらいにしか感じないのだろうと思う。

無数の光の粒は、やんちゃそうな直樹と呼ばれた小学校低学年くらいの男の子の頭上へと降り注ぎ、その小さな身体全体を優しく包み込んだ!

 《ほうら、おいでなすった…女神様よ》 






次の瞬間、直樹君の大きい瞳はまるで何かに操られているようにクイーっと児童書コーナーのある一角へ向けられた。

「あっ、あそこ!」

と、母親の手を振り解いて、一目散にその方向へと駆け出す。

「あ!こら、直樹!走ったらダメでしょう。」

「やーだよぉー、だぁー。」

直樹君は、一度母親の方へ振り向き、そう言いながらあっかんべーをした。母親の片方の眉が見る見る吊り上がり、そのため息は深く重く空間に沈み込む。

直樹君は、そんな母親の様子もお構いなしに、児童書コーナーのカラフルなマットが敷き詰められたスペースへ向かい、履いていたサンダルを乱暴に脱ぎ散らかしてその上にあがると、脇目も振らずに目指す本へ手を伸ばした。その小さな手に握られた赤い本は、A5サイズのハードカバーで、一般の絵本よりは随分と小さく厚みもかなりあるものだった。

「直樹…、お靴を脱いだ後はキチンと揃える!もう、小学1年生なんだから…。」

追いついた母親は、そう言いながら履物を揃え、眉をしかめながら我が子の顔をつめると、

「ママ!僕、この本にするよ。」

と、何の虫気もない笑顔でその赤い本を両手で掲げて彼女に見せた。

「いやいやえん?変わった題名の本ね。いいけど…、その本、ちょっと分厚いわね。それに、字が多そうだけど自分で読める?」

「うん、読めるよ!これがいい」

「夏休みの読書感想文を書く本を選びに来たんだよ。夏休みが終わるまで後十日ほどしかないけど…、読んでから、まだ感想文を書かなきゃいけないんだよ。それでも間に合う?」

「う…うん。けど、なんだか急に…、どうしてもこの本が読みたくなっちゃったんだから仕方ないだろ…。」

と、直樹君は少したじろいながら上目遣いで母親を見る。

「仕方ないわねぇ…。でも、ママは読んであげないからね。自分でちゃんと最後まで読みなさいよ。」

「うん、分かった。ちゃんと読むから…。」

二人は、何度か押し問答を続けていたが、とうとう母親が根負けした様子で、直樹君は大事そうにその本を胸に抱えてサンダルを履き、児童書コーナーから出てきた。

その時、今度は直樹君を取り巻いていた七色の光の粒が母親の方へと移動していく。

すると、子どもとそっくりな形をした大きな母親の瞳は、今度は児童書コーナーの隣に設置してある大きな棚へ向けられた。

 その棚のレイアウトは私が考えたもので、若いママやパパのための家事や育児、生活に関する本を多く取り揃えてある。なるべく、

 女神さまが本を選びやすいように、その人の同線に沿うように配置を考えているつもりである。

案の定、母親の視線も、ある1冊の本に止まり、迷うことなくその本を手に取った。パラパラとページをめくった後、彼女も直樹同様に自然とその本を持ち、私たちが見守るカウンターまで2人でやって来た。

その頃にはもう、2人を包んでいた美しい光の素粒子は、いつの間にやら消えていた。

私がこの美しい七色の光の素粒子のことを、〝女神さま〟の存在だと気が付いたのはいつ頃だったろう。

 この光の粒に包まれた人は、すぐさま本を手に取って、必ずその本をもってカウンターを訪れるのだった。

 その人々の様子を観察していると、その本を借りて帰ってまた返却に来た時の表情はどの人も穏やかで何か満ち足りたように見えるのだ。その人たちの中には、私にお礼を言って本の話を嬉しそうに語る者までいる。

 私は、その現実を何度も目の当たりにし、いつしか神々しいその光の粒に〝女神さま〟と人知れず名付けたのだった。それは長年にわたり、まだ私以外に気付く人は誰もいない。

何も知る由もない2人は、それぞれに手に持った本を、例によって私達へ差し出した。

「この本を、二冊借りたいです。」

と、彼女はリュックを肩から降ろし、財布の中から図書の貸し出しカードを抜き取って、私に手渡した。

この図書館には、いわゆる自動貸し出し機もなければ、検索機すらもない。いや、この図書館には必要ない、と言った方が正しいのかも…。

「はい、承知いたしました。」

と、私はそのカードについているバーコードを読み取り、貸し出しの手続きを始める。

直樹君の方の〝いやいやえん〟の裏側のバーコードを読み込み、次に、母親の方の〝子どもが育つ魔法の言葉〟という育児書の裏側についているバーコードもスキャンする。

その間、直樹君は大人しくしてカウンターに寄りかかりながら、じっと私の様子を見つめていた。

「はい、お待ちどおさま。」

と、私はその本を、サッと自作のキルティングバックへ入れて、直樹君の方へ差し出す。

 「あ、いつか聞こうと思っていたんですが、このバック手作りですよね?色んな柄や色があって楽しいです。どなたかが作られてるんですか?」

「お恥ずかしながら、私なんですよ。手芸が好きで…館長になったころから作り始めたんで色々あるんです。」

「まぁ、ステキです。これを見るとなんかホッとします。」

おもむろに、直樹君は私の顔をまじまじと見て言った。

「おばちゃんの顔は…、一学期に遠足で行ったお寺の観音様・・・みたい。」

「ええっ?」

母親は、我が子の突拍子もない言動に驚き、

 カウンター内の後ろの方で本の整理をしていた司書の広海くんが、思わずプーッと噴き出し、笑いながら言う。

「あははははっ、するどい!確かに君の言う通り、このおばちゃんは、実は観音様なのかもしれないよ。」

広海くんは、綻んだ顔のまま感心したように言った。

「へへん!」

直樹君は得意げに、広海くんを見上げた。

「す、すみません。そんなに人の顔をマジマジみるもんじゃありません!」

母親は、真っ赤になって直樹君の頭を軽く叩く。

「いえいえ、こんなおばちゃんの顔が観音様だなんて、恐れ多いことです…けど、なんだか嬉しいわね。」

「おばちゃん、僕ね、ここに住みたい。」

それを聞いた途端、また後ろで広海くんの笑い声がヒイヒイ聞こえてくる。

「へっ?」

私は、突拍子もない子供の言葉に少し驚いたが、すぐにニッコリと笑顔を取り繕って話す。

「ここはね、住めないのよ。おばちゃんたちもお仕事の時間が終わったら、お家へ帰るの。」

「ふうん。そうなんだぁ。じゃあ、ママがご用事が終わるまで、ここで待っててもいい?」

「もう!なにバカなこと言ってるの。さっさと行くわよ!」

母親は、再び直樹君の腕をガシッと掴む。

「僕、行かない!」

と、直樹君は母親の手を振り解いてカウンターの手すりにしがみ付いた。

「もう、どうしてあなたはいつもそうなの!ママの言うこと全然聞かないで、ヘンなことばっかり言うんだから。行くったら、行くのよ!」

母親は鬼の形相で、今度は直樹のリュックを引っ張り始めた。私はたまらず口を開いた。

「まぁまぁ、お母さま…。」

我に返った彼女は、パッと子どものリュックから手をパッと放して頭を下げた。

「すみません…、こんなところで…。」

「いえ、他に来館者もいませんし、それはいいんですけど…。」

「はあ…。」

彼女は、相槌とも溜息ともとれるくらいの疲弊しきった声を漏らした。

私の脳裏には、こういう時にいつも現れる現象が起こっていた。私はいつからか、何らかの意識を持つと自分の中にある丸い鏡のようなものに、色々なことが映し出されるようになったのだった。

その鏡には、彼女に、下の子が生まれて忙しそうに育児をする様子と、直樹君がそれを横目で見てひがんだり、悲しんだりしている顔、また、日々の親子喧嘩の様子…、時には母親が直樹君に手を上げている様子などがアリアリと映像で写っては消える。

私は、彼女に尋ねた。

「今日は、お急ぎですか?」

「あ…、いえ。今は夏休みなので、そんなに急ぐ用事はないんですけど…、実家で私の母が下の子の面倒を見てくれているものですから、なるべく早く帰って迎えに行かないと…。」

「そうでしたか。」

「まだ下の子は1歳半で、目離しの出来ない時期なものですから…。」

「なるほど。色んなものを口に入れたり、物を投げたりして大変な時期ですものね。」

「そうなんです!男の子だから何するもの激しくて…。」

「ええ、ええ。私も男の子を育てた経験があるので良く分かります。」

「母は、それが大変で…、いつも持て余していて…。」

「お母さま、大変ですね。でも、こちらではお子さんをお預かりすることは、残念ながら出来ないんです。」

「はい、それは承知しています。」

「けど、もしよろしかったら、あとほんの少しの間お母さまに甘えませんか?、それで、もしよろしければ私の読む絵本を一冊、親子で聞いてからお帰りになりませんか?」

その思いがけない私からの申し出に、こわばった母親の表情が緩み、笑顔が広がった。

「えっ?いいんですか?」

「もちろんですとも。私にはそれくらいしかして差し上げられませんけど。それに、最近は来館者が少なくなってしまって、暇なんですよ。だから、どうか遠慮なさらずに。」

「嬉しいです。ね、直樹。」

「うん!おばちゃんの読む絵本、聞きたい。」

「直樹君、じゃあ、おばちゃんが本を読み終わったらママと一緒に帰れる?」

「うん。ぼく帰れる!」

「じゃあ、どうぞ、さっき本を選んでたあちらの児童書のところで読みましょう。」

私はそう言いながら、後ろで聞いている広海くんに目配せすると、日常茶飯事で万事心得ています、と言わんばかりに軽く頷いて微笑んむ。

私が二人を先導して歩くと、直樹君は小躍りしながらついて来る。

「やったぁ!やったぁ!」

私たちが児童書コーナーでそれぞれ靴を脱ぐと、今後は直樹君はすすんで自分のサンダルを揃えてから、他の人の分もキチンと揃えて並べた。

「まあ、すごい!直樹君、ありがとう。上手に並べてくれたのね。」

「うん。」

直樹君は照れくさそうに頭を掻きながら、カラフルなマットが敷き詰められたスぺースの中央へちょこんと腰を下ろした。

「やれば出来るんじゃない…。」

と、母親は少し投げやりに言った。

「お母さまも、カーペットの上にお座りいただいても大丈夫ですか?」

「はい、ぜんぜん大丈夫です!」

と、直樹の横へワンピースを膨らませながら、ぺちゃんと座った。

私は、そのスペースのぐるりを囲んでいる子どもの背丈くらいの低い棚の中から、迷うことなく目的の本を抜き取ると、二人の目の前に置いてある読み聞かせ用の本台の上へ乗せた。

「き・た・か・ぜ と た・い・よ・う。」

直樹君は、その絵本の題名を大きな声で読んだ。

「そう、直樹君、知ってるかな?」

「知って……、ない。」

「これはね、イソップって言う外国の人が作ったお話の中の一つなのよ。気に入ったら、他の物語も面白いから、今度また直樹君が借りて読んでみてね。」

「うん!」

「では、始めます。」

直樹君は、小さな手を一生懸命パチパチパチパチと合わせて、大きな瞳を輝かせた。母親も子供とそっくりな目をして手を叩いた。

「北風と太陽…、むかーし、むかし、お空の上で……」

私はいつも通り、大きな聞き取りやすさを意識した声で、感情を込めて読み始める。

この物語のあらすじはご存じの通り、北風が太陽にどちらが強いか力比べをしようと持ちかける。太陽はその誘いに乗り、通りがかった旅人の上着を脱がせた方の勝ちとする、という勝負をすることにした。まず北風が、強い北風を吹き付けて旅人の服を剥ぎ取ろうとするが、旅人はむしろ寒さで上着を更にしっかりと着直してしまう。

次に、太陽はサンサンと日光を旅人へ注ぐ。すると、旅人は体が温まって上着を脱ごうとする。それを見た北風は、更に強い北風を旅人へ当て続ける。旅人はたまらずにもう1枚上着を着込む。今度は、太陽が光を当て続けると、旅人は上着を脱ぐにとどまらず、着ていた服を全部脱ぎ、川で水浴びを始める。この勝負は太陽の勝ち、という物語。

親子はそれを読み終わるまで、絵本から片時も目を離すことなく、息をするのも忘れるくらい聞き入っている様子であった。そして、2人に出来る限りの盛大な拍手で私を包んでくれた。

「おもしろかったぁ…。」

直樹君の目の光は、口ほどに物を語っていた。

母親の方は、少し愁えるような瞳をして口を開いた。

「すごく良かったです。こんなに素敵な読み聞かせは生まれて初めてです。良く知っている物語なんですけど何だか新鮮で心が洗われました。」

「それは、ありがとうございます。何十年も読み聞かせをしてますと慣れてくるんですよ。さ、そろそろ行かないと、ですね。お母さまがお待ちですね。」

「あ、はい。そうでした。」

「直樹君も、ちゃんと帰れるね?」

「うん!」

と、直樹君は言うが早いか、スックと立ってサッとサンダルを履くと、一人で出口の方まで歩き出した。私たちも、その後姿を追いかけながら並んで歩いた。

「私も…太陽のように子育てが出来るといいんですけど…。」

不意に母親が私につぶやく。私は母親の気持ちを察しながら答えた。

「いえいえ、誰でも最初から上手くは出来ないですよ。子どもと一緒に成長して行けばいいんですよ。子どもの年齢が7才なら、ママも7才です。」

「…ああ、そうか。私も子どもと同い年なんですね。」

「ええ、そう考えればいいんじゃないかと私も思います。それと、これは私が下の子を出産したときに、産院の先生がおっしゃった言葉なんですけどね、下の子は、何かにつけて手がかかります。それを見て上の子は、やきもちを焼くんですよ。だから、なるべく下の子が寝ている時や誰かに見てもらっている時なんかは、上のお子さんと遊んだり構ってあげたりしてみられて下さい、って。」

「へえー、そうなんですね。目から鱗です。そうします!」

「ええ、そう心がけていれば、きっと上の子も、ママは僕のこともちゃんと大切にしてくれているんだと安心して、情緒も安定してくるし、然も、兄弟仲も良くなるらしいですよ。」

「なるほど…。大切なことを教えてくださって、本当にありがとうございます。今まで、そんなこと考えもしなかったです。それに、色んな事があって大変で、私いつもイライラして、子どもに八つ当たりしちゃって…。もう少し、ゆっくりと落ち着いて子育てしてみようと思いました。」

「そうですよ。ゆっくり、のんびりでいいと思います。誰にも迷惑かけてる訳じゃないんですから。」

「はい。そうですよね。もう少し気楽にやってみようと思います。」

館内には、チラホラとお年寄りや中年の女性の来館者の姿が見られた。

出入口まで来ると、広海くんが直樹君と何やら手をつなぎながら話していた。

「あ、ママ来たっ!」

直樹君は私たちが来たのを見ると、今日借りた本二冊が入ったキルティングバックをしっかりと手に持って、ママの足に抱きついた。

彼女は、直樹君の頭を愛おしそうに撫で、その目にはうっすらと涙が溜まっていた。

「今日借りられたご本にも、きっと色々と参考になることが書かれていると思います。なんせ、特別・・な《・》ですからね。」

「えっ?特別・・?」

「あ、いえ…特別に縁のあるご本だという意味です。」

(いけない、ついつい口が滑っちゃったわ。女神さまが選んでくれた本だから、なんてことまさか言えないわよね。)

「はい。時間を見つけて読んでみます。」

「ゆっくりで構いませんよ。その本をお待ちの方がいらっしゃらなければ延長も出来ますから。」

「ああ、今日はこちらの図書館に来て本当によかった…。」

彼女は、目頭をそっと押さえた。

「ぼうず!また、来いよ。観音様を拝みにな!」

と、広海くんは、おチャラけて拝んでいるポーズを私に向ける。

「バカ、何やってんの。お賽銭もらうわよ。」

4人の笑い声が遠慮がちに館内に響く。

「おばちゃん、絶対、また来るよ!」

直樹君と母親は、しっかりと手をつないで帰って行った。

「これでまた、館長の信者が二人増えたな。けど、それにしてもあの親子…僕が小学校だったころの母と僕に似てませんか?」

「ほんとにね、私もそう思っていたわ。ほんとそっくり。広海くんのお母さまもいつもポニーテールで。二人とも目が大きくって黒目勝ちでね。」

「デジャブ感じますよ。母はともかく、僕はどうしようもないクソガキでね。」

「あ、それは、今でも、じゃない?」

「あははっ、ひっどいなぁ。」

 広海君は、優しく微笑んで頭をかく。

「それはそうと、私たちが来る前にさっき2人で何を話してたの?」

「あ、ああ…あれ、もう君は小学生なんだから、お前がママを守らなきゃいけないんだぜ。困らせてどうするんだって、話してました。」

「やっるじゃない、広海くん!」

と、私は彼の広い背中をドンと叩く。

「えへへっ、館長の弟子ですから。けど、僕もここで最初に自分で借りた本が〝いやいやえん〟だったんですよ。たしか…母の方もあの育児書を借りていた気がします。思い出しますよ、あの頃のことを……。」

「そうねぇ…。私もまだあの頃は若かったわ…。ちょうど主人の仕事の都合でこの町へ引っ越して来て、ここの図書館で働くようになった年と同じ春頃のことだったから良ーく覚えてるわ…。」

私は、遠ざかっていく仲睦まじい親子の後ろ姿を見つめて、そっとエールを送りながら、あの日の広海君親子と重ねる。

〝これからの長い道のり、どうぞお気をつけて〟と祈った、あの日の遠い記憶が蘇り始める。。






そして、機嫌良く図書館を出てきたばかりの直樹と母親の親子の頭上には、俄かにまるで待ち構えていたような雨雲が不穏に覆う。

「あら?私たちの上にだけ黒い雲があるわ。他は晴れてるのに…何だか気味が悪いわぁ…。」

母親は、その空模様を不思議そうに不安な二つの瞳で眺めた。




それもそのはず「 背世界」では、それはそれはおどろ恐ろしい姿をした邪神ウォレスが地呉天より地上へ降り立っていたのでございます。

「ふひゃーっ!くそぉ!どいつもこいつも、この図書館から出てきた時には、波動の色が変わりやがるぜ。この親子も、入るときには、この俺様が操ってやれるくらいの緑色の波動を出していやがったくせに…。今はどうだ、黄色に変化していやがるじゃねえか!これじゃ、あの親子に不幸を与えてやれねえ。」

地団駄を踏んで悔しがる邪神ウォレスの身体は、実に気味が悪くこの世のものでく、言うなれば邪念が神格化したものとでも言うべきでしょうか。

 頭は龍のように流線形で二本の角があり、その目は、暗闇を見通すが如く両側に切れ上がり鋭く赤く、その身体は筋肉の標本模型みたいにハンターグリーンに、黒っぽいグレーの筋が無数に絡み合った集合体でカエルの皮膚のようにヌメヌメとして、所どころにコバルトブルーの蛍光色が光って見える。

「この仕業は…全ての波動をつかさどる女神ミュゼットの奴に違いない。」

と、コントラバスが不協和音を奏でた時のような何とも不快な低い声が、背世界に響く。

 その声は到底人間が出せるものではないのです。

「とっとと、下がってくれたまえ、ウォレス君。どうやら君の出る幕はなさそうだねぇ。」

 今度は、ヴァイオリンよりは少し低いちょうどヴィオラの音色のような美しくも勇ましい声がする。その声もまた人間が出せる音ではない。

「なっ、その声は、明王アフロス!」






その同じころ、地上の「形の見える世界」では、図書館を出た直後に暗雲が立ち込めていた親子の頭上に、今度はそれにとって替わり突如として澄んだ黄色い木漏れ日が差し込める。

 直樹と母親は、その木漏れ日のあまりの眩しさに思わず目を伏せた。

「うわっ、まぶしい!」

「まったく、どうしたというの?何だか、空模様がおかしい…。さ、早くお家へ帰りましょう!」

と、驚いた母親は直樹の手を取ると、そそくさと帰って行った。




背世界では、黄金のマントを翻し颯爽と現れた明王アフロスがウォレスと対峙していたのでございます。

 アフロスはギリシャ彫刻のような立派な体つきで、その身体も黄金に光り輝やいていた。

ウォレスは、赤い眼球でアフロスを睨みつけ、ちょうどワニが口を開けた時のような耳まで裂けた大きな口を開け、覗く牙からは緑色の液体を滴らせながら不気味な声で言う。

「けっ、お前はいつも俺様の邪魔をしやがる。もう少しのところでまた逃がしちまったじゃねえか。さては、あの二人から出た黄色の波動を嗅ぎつけてやって来やがったな。もう少し待っていれば、すぐ奴らの波動はまた緑に変わったであろうものを…。しかも、貴様のそのチャラい金ピカの身体は、見れば見るほど胸くそ悪いぜっ。」

「それは、ご挨拶だねぇ。では言わせてもらうが、君のその身体と、私のこの身体とどちらの好感度が高いだろうね?」

「この俺様の身体こそが負の象徴。地上の森羅万象ありとあらゆる怨み、苦しみ、悲しみ、憎しみ、妬み、怒り、不安、不満…すべての負の感情や要素を受け止ことが出来る偉大な身体なんだぞ。貴様の甘っちょろい黄色い感情を受け止める身体とは格が違うのさ。」

と、答えるウォレスの頭頂部には全ての負の要素を察知するための尖った角があり、誇らしげにコウモリのような2本の翼をバサッと出して広げ、サタンのような容姿を見せつける。

「私の受け止める感情が、甘っちょろいだと?この私の美しい身体こそが天の証。喜びや、勇気、希望、幸福感、満足感、安らぎ、許し、癒し、のようなポジティブな正の感情こそが人に最も大切なものなのさ。私のこの黄金色に輝く光は、平常心、平和、冷静さを取り戻し、乱れた心を整えることが出来る特別なものなのさ。君とはどこまで行っても平行線だねー。関わるだけ無駄な気がするよ。ブラックホールにでも吸い込まれて、どこかへ消えてくれないかい?、ウォレス君。」

と、アフロスは腕組しながら、その精悍な顔つきでウォレスに憐れむような視線を放った。

「能天気な奴め!そんな感情は所詮、一時の気休めに過ぎねえのさ。」

ウォレスは、牙から滴ったネバネバの緑色の液体を撒き散らしながら叫んだ。

「ああ、全く話にならない。しかし…、須弥山しゅみせんまでの地上と畜生道、地下の餓鬼から八大地獄に至るまでの、下層欲界の長ともあろう君がわざわざここに降り立つとはな。下層欲界はよほどヒマと見える。君が降り立つと私が来なければいけなくなるのが必至。君と違って、私は忙しい身なんだがね。」

「なんだと!俺様がヒマなわきゃねえだろ。この地上には、欲にまみれ苦悩に満ちた人間のなんと多いことか。貴様のようなお気楽なお山の大将には分かるまいよ。」

「失敬な、六欲天を統率する我を愚弄するとは。非礼を詫びていただこうか。」

「おやめなさい!お二人とも。」

ウォレスの背後から、ハープの奏でるメロディのような甘く優しい声が響いた。

「やぁ、マイハニー!ミュゼット。君はいつ見ても美しい。ちょうどウォレスにはウンザリしていたところさ。いくら君だってそう思うだろう?」

「アフロス…貴方たちが正反対の属性なのは分かるけれど…、それは言い過ぎよ。私たちは同じこの空間世界の住人。お互いに尊重し、助け合うべき仲間なんだから。」

女神ミュゼットは、その魅惑的な裸体を隠すように、自らが放つ虹色に輝くオーラと羽衣を身に纏い、身の丈ほどもある金色のウエーブした髪を自身のオーラでサラサラとなびかせながら、人間界では決して聞くことの出来ないまるでハープでセレナーデを奏でているかのようにうっとりする声で話す。それを聞いていたアフロスは陶酔しきったような表情で答える。

「ああ、マイハニー、なんて美しい声なんだ。さすがはこの背世界を統べる神よ。君の言うことならなんだって聞いてしまいそうになるよ。けどね、奴はいささか度が過ぎる。人間たちが不幸になるのを、まるで楽しんでいるように見えるのさ。」

背世界を監督する女神ミュゼットは、優しく語りかける。

「それは…、きっと彼の性質ゆえの悲しい定め。彼は、過ちを犯してしまった者や、間違った方向へ進もうとする者に対して試練を与える神だもの。そして、その試練の意味を理解することなく更なる罪を重ねるだけの者や、間違った方向へ進み続けて自身の身を削りすぎて腐敗させてしまった者などへの、魂の再スタートを死神ゴーレムに託す使命があるの。その為には、負の強いエネルギーが必要なのよ。彼はただ、そのエネルギーと一体化しているだけ。楽しんでいるように見えるのは、彼の悲しい性ゆえなのかも知れないわ。それは、貴方も同じでしょう。貴方は、魂の向上を促す神。意識の高い魂を更なる高みへ導いたり、ウォレスの与えた試練に気づいて乗り越えようとする者への救済、そして見事に黒山、金山、須弥山と試練を次々に乗り越えた者たちを、天使レイチェルへと託す役目を与えられている。だから、貴方は泉のように湧き起こる勇気と希望で満ち溢れているわ。それも、貴方にはごく自然なことでしょう?」

アフロスは、そのミュゼットの言葉を右手の人差し指と親指を開いた間に顎を乗せて黙って聞いていた。聞き終えると一呼吸おいて、少し肩眉を上げながら観念した表情で答えた。

「ま、確かにね…、ハニー。やはり君には適わないな。」

ミュゼットは、今度はウォレスに向き直ると小首をかしげて更に優しく話す。

「けれど、ウォレスも…、お役目を全うすることは素晴らしいことだけど、感情を移入し過ぎるのもどうかしらね。」

「うううむ、ムムムムムッ…。」

ウォレスは、言葉とも鳴き声とも言えない声で小さく唸った。

「時に、ハニー。どうして近ごろ君は、この図書館に居るんだい?」

「それはね、この図書館の館長の南さんがね、八正道を極め、梵天勧請ぼんてんかんじょうを経て最正覚さいしょうかくに達したからなの。」

「入滅前の釈迦と同じ、という訳か…。」

「ええ。そう考えれば分かりやすいわね。私は、その人たちのことを〝フェアリー〟と呼んでいるの。背世界を監督する役目以外にも、悟りを開き、それを皆にも伝えようと努力している人を応援する役目も私にはあるから。それで、この図書館にも来ているという訳なのよ。」

「なるほど。では、ここへ来れば君とまた会えるわけだ…。」

ウォレスの呆れ顔が自分を見ているのに気づき、アフロスはにやけた表情をリセットするように一度咳払いをしてから続けた。

「おっほん…、ところで、その〝フェアリー〟は近ごろでは増えたのかい?」

「それが…思ったほど増えてはいないの。残念なことにね…。だからこうして、フェアリーを精一杯応援しているんだけれど…。そう易々と人間はそこに到達することは出来ないものなのね。けれど、あと一歩の人は沢山いるのよ。貴方も魂をレイチェルに託す機会が増えたでしょう?」

「ああ、まあね。その魂をレイチェルに手渡すという事は、今世で輪廻りんねを終えるという事だ。即ち、それがその者の人間としての最後・・の《・》となる。」

突然、ウォレスが悲鳴に近い声を上げる。

「ひひゃやあああぁ…、レイチェルにフェアリーと、俺様の目でその名を連呼するな!聞くだけで虫唾むしずが走る。胸が苦しい…。」

ミュゼットは、すまなさそうに言う。

「ウォレス…、ごめんなさい。配慮が足りなかったわ…。今度からその者たちことを〝白い波動を持つ者たち〟と言い換えるわ。貴方はその響きを聞いただけで苦しく感じるのよね。白い波動を発する者たちと、貴方は関われない。それどころか存在すら分からない。見ることも、声を聞くことも出来ないんですものね。アフロスが、死神ゴーレムや赤色の波動を持つ者たちを認識できないのと同じように。」

「ああ、ゴーレム様。我が心酔して止まないお方。俺様だけがお仕えできる輪廻を司る最強の神。そのお方の存在が分からないなんて、可哀そうで仕方ねぇよ、アフロス。」

「あははははっ、可哀そうなのはどっちだよ。レイチェルはな、ハニーと同じくらいに美しいんだぜ。透き通るような幻の姫さ。そんな姫君たちと時を過ごせる私はこの上ない幸せ者。正にハーレム。」

「ぐへぇ…、だから、俺様の前でその名を口にするなと言っただろう!」

ウォレスは、苦しそうに身もだえしながら言いった。

アフロスは、にんまりと口角を上げる。

「きっ、貴様、わざとだな。」

「ああ、もう、いさかいはその辺りにして…。せっかくこうして顔を合わせたんだから、もっと建設的なお話をしましょうよ。」

ミュゼットの美しい声は、一瞬にして背世界に凪と癒しをもたらす。

「では、図書館に誕生した白い波動を持つ彼女には、僕たちの姿は見えるのかい?」

「アフロス、いい質問ね。鮮明には見えていないと思うけど、私の存在自体は分かっているはず、けれど、貴方たちの存在はまだ認識できていないと思う。もっと意識が高まってくると分かるようになるかも知れないわ。」

「うへぇ!人間などに俺様が見えてたまるか!そう簡単に神の領域に立ち入れるものではねえ!」

「そうだな。見えはすれ理解など出来ようはずはないがな。」

「おお、アフロスよ、珍しく意見が合ったな。ふひゃっ、ふひゃっ、ふひゃ…。」

ウォレスの高笑いは、不気味に空間を捻じ曲げる。それとは正反対にミュゼットの美しい声は、それを見る見る解いていき、背世界はまた静寂を取り戻してゆく。

「けれど…、もし彼女が理解できたとしたら…、それは…。」

ミュゼットは、何かを言いかけて止め、別の言葉で噤む。

「…それはそうと、この直樹君とお母さまの親子はいつぞやの親子とそっくりね。そう思わない?」

「ああ!思い出したぞ!今、ここの司書をしている青年の…、そう、広海くんの小学生の時と、その母親のあおいとそっくりだな。」

「おおっ、やはりな。どおりであの頃の広海と同じような波動を出していやがると思ったぜ。あの美しいエメラルドグリーンの波動にはどおりで見覚えがあるはずだ。」

「ハハーン、そうか。それで君はそれを拝みにわざわざ地呉天から降りて来たというわけだ。」

「う、うううぅ…、悪いか。」

「いや、悪いとは言ってないさ。広海くんの波動は並みの波動ではないからね。君が緑色の波動を出すことは滅多になかろうがね執着するもの無理はないさ。今も特別に美しいものだよ。もっとも今では君のテリトリーの。」

「うううっ…確かに。今ではもう、ほぼあのグリーンの波動は、俺様にとっては幻になっちまっていたがな。広海は、完全にあの苦悩に満ちたグリーンの波動を封印しちまったようだ。けど…また、あの美しい波動を出す者に出会えるとは…。」

ウォレスは、嬉しそうにニヤリとする。

「やけに嬉しそうな顔をするねぇ、ウォレス君。」

アフロスは、からかう様に言う。

「う、うるせぇ!ちょっと、昔を思い出しちまっただけだ!」

「私も、思い出しちゃったわ。あの時の出来事を…。」

「そう、あれは今から二十年ほど昔になるかな?たしか…広海くんが、この親子のように母親とこの図書館を訪れて、南館長と初めて出会ったんだったな…。」

「そうそう!広海くんは、まだ小学校1年生で、ちょうど直樹君と同じくらいの年恰好だったわね。それで、その出会いで、広海くんが司書を目指すきっかけになったのよね。」

「ふひゃっ、ふひゃ、俺様たちも、こうやって地上へ降り立って、3人で奴らを見降ろしていたっけな。」

「懐かしいわね、あの夏の日。あの頃の広海くん…。」


 




図書館では館長が、そのころまだ小学1年生だった広海の様子と、今現在このように成長して目の前にいる青年の広海を重ね合わせて見つめていた。


 「私も年を取るはずよねー。ママに手を引かれてこの図書館へ通っていたかわいい男の子が、こんなに立派になったんですものね」

 「やだなぁ、館長!立派だなんて…。立派なのは体だけですよ。」

 「そうかしら?私は案外見込みがあると思ってるんだけどね。」

 「え?そうなんですか?嬉しいなぁ。」

 私は、広海くんの優し眼差しの奥に宿る美しい光を見つめながら、少年だったころの彼の瞳を思い出していた。






「ママっ、ママ!開けてよー!」

ぼくは、自分ちのマンションの鍵がかかった玄関のドア前で大きな声をあげた。顔から吹き出て流れた汗が顎のあたりでつながって、灼熱の日差しが照り付ける最上階である6階の廊下へポタリと落ちた。

玄関のチャイムをママとの約束通り一回だけ鳴らしてからしばらく待ったのに、玄関のドアは全く開く気配がなかったからだ。

さっきまで隣の公園で友也ともやくんとと遊んでいた。

小学一年生の僕は、家のカギをまだ持たせてもらっていない。次に、ドアをグーでガンガンガンガンと叩いた。


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