第9話 王なき冥界と、使徒の影
冥界に、朝が根づいてから七日が経った。
千年の闇を越えた世界は、今もまだ戸惑っている。
夜の国に“時間”という概念が生まれ、人々はようやく「朝」と「夕暮れ」を口にし始めた。
けれど――。
「……陛下の玉座が、空のままなのです」
リリアが、静かに報告を終えた。
彼女の腕にはまだ傷が残っている。セレーネの憑依の痕跡だ。
それでも、彼女は迷いなく立ち、冥界の文官たちを導いていた。
「玉座を継ぐ者が現れぬ限り、冥界の統治は宙に浮きます。
……エリス様、どうか“暁の王女”として即位を」
「……その名、まだ慣れませんね」
私は微笑んで、ルシフェルの残した印章を手の中で転がした。
黒曜石の指輪――血の契約の象徴。
それが今、私の右手に収まっている。
「私は王にはなれません。
でも、“繋ぐ者”としての責任は果たします。
それが、陛下との約束です」
「……はい」
リリアは深く頷いた。
その目には、かつての侍女の従順ではなく、同志の決意が宿っていた。
***
会議の間には、冥界の貴族と長老たちが集まっていた。
以前ならルシフェルの影に怯えていた者たちも、今は別の緊張に包まれている。
「冥王亡き今、誰がこの国を導くというのだ」
「光の民が攻めてこぬ保証などない」
「“人間の女”を王女に据えるなど、我々の伝統が――!」
ざわめく声。
私は一歩前に出て、冷静に告げた。
「静粛にお願いします。
――冥界は、もう“恐怖”で動く時代ではありません。
今必要なのは、“対話”と“信頼”です」
「信頼? そんなもの、過去に何度裏切られたことか」
「ならば、今度こそ成功させます」
その言葉に、一瞬ざわめきが止んだ。
「私の使命は、冥界を守ることではありません。
――“冥界と人間界、両方を生かすこと”です」
「……何を言っている?」
「どちらかが滅ぶ平和は、真の平和ではありません。
戦争を止めるのではなく、“続かせない仕組み”を作る。
それが私の戦いです」
沈黙。
空気が、わずかに変わった。
彼らの表情が、困惑から興味へと揺れる。
人は未知を恐れるが、同時に“希望”にも惹かれる。
「……言葉だけなら、誰にでも言える」
「ええ。だから、行動で示します」
私は指輪を掲げた。
黒い石が光を放ち、宙に紋章が浮かぶ。
それは――冥王ルシフェルの“王印”。
そして、その中央には、金色の再誓花が重ねられていた。
「陛下の意志は、ここにあります。
私がそれを“理(ことわり)”として形にします」
その瞬間、空気が静まった。
長老たちが、ゆっくりと頭を下げた。
――冥界に、新たな王が生まれた瞬間だった。
***
夜。
私は、塔の上から地平を見下ろしていた。
魂花の灯りが街を照らし、人々がその下で話している。
冥界に“生活”という温もりが戻ってきていた。
「……ルシフェル。見ていますか」
呟いたそのとき、背後で風が揺れた。
「まさか、もう“王女”になってしまうとはね」
――その声。
振り返ると、フードをかぶった青年が立っていた。
銀の髪、灰色の瞳。
その肌は光を帯び、背中から淡い光の羽が伸びていた。
「……あなたは?」
「地上より来たりし、“使徒”だ。
神の意を伝える者――だが、安心して。剣を持ってきたわけじゃない」
「使徒……。聖教会の者?」
「“元”だ。
今の教会は、信仰ではなく権力に仕える。
俺はそれを嫌って、“落ちた”。――いや、“降りた”の方が正しいか」
彼は皮肉めいた笑みを浮かべた。
だがその目には、冷たい知性があった。
「あなたの名は?」
「カイン。……皮肉だろう? “最初の裏切り者”の名だ」
「ふふ。なら、私は“再誓の女”です。お似合いですね」
「ほう、冗談が言えるとは思わなかった」
ふたりの間に、静かな風が流れる。
「冥王が消えた今、神々は動く。
“再誓の花”の誕生は、天界への“反逆”と見なされている。
だから、俺が来た。――あなたを護るために」
「護る? あなたが?」
「誤解しないでくれ。
俺は神に背いた。だから、天界に戻れない。
――だが、あなたを見て確信した。
“あの人”が守りたかったのは、きっとこの光だ」
「……“あの人”?」
「冥王ルシフェル。
彼は、堕天前の俺の師だった」
時が止まったようだった。
この青年の中に、ルシフェルの影が重なった。
「……陛下の、弟子……?」
「そう。俺はかつて、“光の戦士”として彼に仕えた。
だが、彼が堕ちたとき、俺は神の側についた。
その選択を、今も悔いている」
「だから今度は、違う道を選んだのですね」
「そうだ。今度は、信じてみたい。
“愛と理”が両立できる世界を」
風が吹き、彼の羽が揺れた。
その羽は白ではなく、淡く金に染まっていた。
「――あなたに会いに来たのは、警告でも、命令でもない。
“盟約”を結ぶためだ」
「盟約……?」
「冥界と天界の架け橋として。
“暁の王女エリス”と、“堕天の使徒カイン”。
――二人で、世界を再構築する」
言葉が空気を震わせる。
まるで、ルシフェルの誓いが再び形を持ったかのように。
「……いいでしょう。あなたの誓い、受け取ります。
ただし、一つだけ条件があります」
「条件?」
「――裏切らないこと。それだけです」
カインは少し笑い、手を差し出した。
「誓おう。光にも闇にも縛られず、ただ“人”としてあなたに仕える」
その瞬間、二人の手の間に光が生まれた。
再誓花の金の花弁が舞い、空に散っていく。
その光は、まるで“新しい神話”の始まりを告げる鐘のようだった。
***
――こうして、“冥界と天界の交渉使”が誕生した。
ルシフェルの遺した空位の玉座の下で、
エリスとカインは、世界の理を再び描き始める。
けれど、この夜明けの光の裏で、
まだ誰も知らぬ“第三の影”が動き始めていた。
🌗次回予告(第10話)
「光の教団と、裏界の囁き」
地上で再編される“聖教会”が冥界への新たな侵攻を画策。
カインの過去と、エリスの“二界の血”が再び試される。
――そのとき、冥界の奥底から“禁じられた王”が目を覚ます。
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