第3話 血の契約と、魔王の過去

 翌朝、冥界の空は、夜と同じ色をしていた。

 けれど、私の胸の奥にはかすかな光があった。

 ――昨日、彼に“必要だ”と言われた。その事実だけで、生き返ったような気がしていた。


 重厚な扉を開けると、廊下の先でリリアが待っていた。

「陛下がお呼びです。王の間へ」


 私はうなずき、黒のドレスの裾を整える。

 鏡に映る自分の顔は、もう“処刑された令嬢”ではない。

 代わりに、冥界の光を纏った新しい私がいた。


***


 王の間。

 昨日の晩餐とは違う静謐な空間。壁には古い碑文が刻まれ、天井には血のような紅い紋章が描かれていた。

 その中央、ルシフェルが立っていた。


「来たか、エリス」


「お呼びとのことでしたが……何かご用でしょうか?」


「お前を“正式な后候補”として、契約を結ぶ」

 その言葉に、息が止まった。

「契約……とは?」


「冥界では、婚姻は血の契約によって結ばれる。魂の一部を分け合い、互いの存在を証とする。――だが、強制ではない。拒むこともできる」


「拒まれたことも、ありますの?」


 問いかけると、ルシフェルは一瞬だけ視線を逸らした。

 その仕草が妙に人間らしく見えて、胸がざわめいた。


「……昔、一人だけいた。だが、その者は我を恐れ、契約の直前に逃げた。

 ――そして人間界で処刑された」


 空気が凍りつく。

 私の心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。


「……それは、偶然では?」


「偶然ではない。冥界の力を恐れた人間の王が、その女を“魔王の間者”として処刑した。……お前の処刑理由と、酷く似ているだろう?」


 私は息を呑んだ。

 血の気が引いていく。

 まるで自分の運命が、すでに彼の過去と絡み合っていたかのようだった。


「その方の……名は?」


「――セリア」


 ルシフェルはゆっくりと目を閉じた。

 彼の長い睫毛が、わずかに震える。


「彼女は、我を人として見てくれた唯一の人間だった。だが、我は守れなかった。

 それ以来、人間とは交わらぬと誓った。……だが、お前を見た瞬間、我はまた誓いを破った」


 静寂。

 その言葉に込められた痛みが、空気を震わせる。

 私は思わず前に出た。


「陛下。……貴方はまだ、その誓いに縛られているのですね」


「そうかもしれぬ。

 だが同時に――我は、お前を失いたくない」


 その声音は、魔王のものではなかった。

 ひとりの“男”としての切実な響きだった。


「……契約は、痛みますか?」


「痛みは一瞬だ。だが、心は永遠に繋がる」


 ルシフェルは小さな短剣を取り出した。

 黒曜石でできたそれは、光を吸い込むように鈍く輝いている。


「この刃で互いの指を傷つけ、血を交わす。それが冥界の契約儀式だ」


「……いいでしょう。やりましょう、陛下」


「よいのか?」


「ええ。私も誓いたいのです。

 “過去に負けない”と。――貴方と共に、未来を変えると」


 ルシフェルの紅い瞳が、ゆるやかに見開かれた。

 次の瞬間、彼の唇がわずかに笑みに歪む。


「お前という女は……本当に、予想を裏切ってばかりだ」


「褒め言葉として、受け取っておきますわ」


 互いに指を差し出す。

 刃が触れ、赤い滴が流れた。

 その血が混じり合う瞬間、部屋の紋章が淡く光を放った。


 ――ドクン。


 熱が、身体を貫いた。

 心臓の奥が焼けるように痛い。

 けれど、同時に、心のどこかが安らいでいた。


「これで、契約は完了だ」


 ルシフェルの声が遠くに聞こえる。

 けれど、その目は近かった。

 紅の光が、私の瞳に映る。


「……陛下。これで私は、貴方のものですか?」


「違う。――我の“半身”だ」


 そう言って、彼は私の手を取った。

 その手のひらから、熱が伝わる。

 指先から、何かが流れ込むようだった。


「これで、お前の中には我の力が宿った。

 同時に、お前が傷つけば、我も傷つく」


「……つまり、共倒れの契約ですわね」


「ふ、そういう言い方もできる」


 ふと、笑いがこぼれる。

 この冥界で、笑うことがあるなんて思わなかった。

 けれど、彼もまた同じように、静かに微笑んでいた。


***


 儀式を終えたあと、城の外に出ると、青白い光の花々が咲き乱れていた。

 それは“魂花”と呼ばれる、冥界にしか咲かぬ花だ。

 死した魂が安らぎを得たとき、その形で姿を現すという。


「綺麗……」

「お前が冥界に来てから、花の数が増えた」


「え……?」


「冥界は、感情に呼応する。お前が笑えば、花が咲く」


 その言葉に、胸が熱くなる。

 死の国で、命が芽吹く――なんて、皮肉で、そして美しい。


「陛下。……この花がもっと咲くように、私、努力しますね」


「努力?」

「ええ。“生きる努力”ですわ。ここでも、もう一度」


 ルシフェルは何も言わなかった。

 ただ、手を伸ばして私の髪を撫でた。


「エリス。――冥界に光をもたらしたのは、千年ぶりだ」


 その声には、確かに“希望”が宿っていた。


***


 けれどその夜。

 私は城の廊下で、ひそやかな声を耳にした。


「……人間など、陛下を滅ぼすだけだ」

「“契約”の血は呪いに変わる。――あの女が、冥界を崩す」


 闇の奥で、二つの影が蠢いていた。

 その声は、嫉妬か、あるいは忠誠か。

 私には、まだ分からなかった。


 ただ、胸の奥で冷たい予感が囁いていた。

 “契約”とは、絆であり、同時に“呪い”でもあるのだと。


🌹次回予告(第4話)


「黒き予言と、裏切りの香り」

冥界に忍び寄る“崩壊の兆し”。

エリスの契約がもたらす“光と影”が、次なる運命を揺るがす――。

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