第二十五章:感情の嵐

 偽りの楽園が奏でる、機械的で空虚な不協和音。

 ユイだけがその欺瞞に気づき、仲間たちに警告を発しようとした、その刹那だった。

 世界が、反転した。

 それまで色鮮やかだった花々や木々が、まるでインクを染み込ませた紙のように、急速にその色彩を失い、どす黒いモノクロームへと変貌していく。

 甘美だった香りは一瞬で腐臭へと変わり、穏やかだった空気は、粘性を帯びた憎悪そのものとなって彼らの肌にまとわりついた。


「罠だ!囲まれている!」


 レンの絶叫が響く。彼の鼻は、凝縮された恐怖と絶望の「匂い」に焼かれ、呼吸すらままならない。

 ミコもまた、楽園の偽りの記憶が剥がれ落ち、その下に隠されていた無数の魂の断末魔の「響き」に触れてしまい、顔面蒼白となってその場に膝をついた。

 カイは、偽りの赤が消え去った代わりに、世界の至る所から噴出する本物の「赤」――純粋な苦痛の奔流――に全身を貫かれ、呻き声を上げていた。

 そして、ユイの予感は最悪の形で的中する。

 黒く変色した大地から、影そのものが染み出すように、「色を喰らう者たち」が、無数に、無限に湧き出てきたのだ。

 楽園の色彩と、それに誘われた者たちの安堵した感情を貪り喰らい、奴らはその姿をより具現化させていた。

 ある者は泣き叫ぶ赤子の顔を無数に体に浮かび上がらせ、ある者は嫉妬の緑色に染まった鋭い鎌を振りかざしている。

 ユイの「色を聴く」能力は、この時、最大の試練に直面していた。

 異形たちが色を喰らうたびに、失われた色彩の断末魔の叫びが、恐怖に震える魂たちの感情が、物理的な衝撃を伴う巨大な「音の津波」となって、ユイの意識に容赦なく押し寄せる。

 赤の、耳を潰すほどの猛烈な怒号。

 青の、意識の底まで引きずり込むような深い絶望の唸り。

 黄の、正気を失わせる狂気じみた甲高い悲鳴。

 ――無数の感情が、もはや区別のつかない凄まじいノイズの塊と化して彼女の精神をかき乱し、全身の神経を直接引き裂くような激痛が走った。それは、これまで彼女が守ってきた「静けさ」とは正反対の、耐え難い「感情の嵐」だった。


「ユイ、しっかりしろ!」


 レンが、腐臭の中で叫びながら異形の群れに立ち向かう。

 ミコは、膝をついたまま、残された微かな記憶の残滓を読み取り、敵の次の攻撃パターンを予測しようと必死に精神を集中させている。


「右……! 右から来る……!」


 カイは、自身の赤い痛みを道標に、最も強力な攻撃の波が迫る方向を指し示し、無言の警告を発するが、その体は限界に近いのか、激しく震えていた。

 仲間たちが、それぞれの地獄の中で必死に戦っている。

 だが、ユイは感覚的な過負荷によって、意識が明滅していた。

 世界がスローモーションになり、音が遠のいていく。

 このままでは、この感情の奔流に意識のすべてを飲み込まれてしまう。

 ――いやだ。

 ――まだ、終わりたくない。

 その混乱の極致で、彼女は本能的に、自身の「静けさ」を取り戻そうともがいた。嵐の音をただ聞くのではない。

 その音を、理解するのだ。

 彼女は、自身の能力が単なる「音を聴く」だけでなく、その音の波を、ほんのわずかでも「調整」できる可能性に、無意識のうちに気づき始めていた。

 無秩序に荒れ狂う嵐の中で、特定の感情の「周波数」――例えば、仲間たちを守ろうとするレンの、焦燥に駆られた感情の匂いが放つ鋭い音――に、意識のすべてを集中させる。

 そして、それ以外のノイズを、ほんの少しだけ、抑制しようと試みる。

 それは、荒れ狂う大嵐の中で、一本の細い糸をを手繰り寄せるような、あまりに危険な綱渡りだった。

 一歩間違えれば、完全に意識を失い、二度と戻れない精神の深淵に堕ちてしまうだろう。

 しかし、生き残るためには、この新たな感覚と、その制御方法を、この絶望的な戦場の中で、瞬時に習得しなければならない。

 異形の襲撃は続く。

 ユイは仲間たちと共に、この感情の津波を乗り越える術を、今まさに、その魂で探し求めていた。


(第二十五章 了)

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