第二十四章:偽りの楽園

 世界の根源たる「色」が、意思を持つ寄生生命体【色の呪い】によって喰われている。

 その絶望的な真実を知った一行の雰囲気は、重く沈んでいた。

 カイの「赤の痛み」が指し示す方角――呪いの本体がいるであろう場所を目指す道中は、これまで以上に緊張感に満ちていた。

 異形の襲撃は途絶え、むしろ不気味なほどの静寂が、彼らの警戒心を煽っていた。

 まるで、巨大な肉食獣が獲物を巣穴に誘い込む前の、嵐の前の静けさのように。


「おかしい……」


 先頭を歩いていたレンが、眉をひそめて立ち止まった。

 彼は優れた嗅覚で、常に周囲の色の気配を探っている。

 その鼻が、異常を捉えていた。


「腐敗した感情の匂いが、完全に消えた。いや、何か別の……甘ったるい匂いに、無理やり上書きされている感じだ」


 彼の言葉通り、それまで一行の鼻腔にまとわりついていた、死と虚無のかすかな金属臭が嘘のように消え、代わりに、まるで熟れすぎた果実と蜜蝋を混ぜ合わせたような、濃厚でねっとりとした甘やかな香りが漂い始めていた。

 それは心地よいというよりも、むしろ嗅覚を麻痺させるような、暴力的なまでの甘さだった。

 周囲を覆っていた灰色の霧が、ゆっくりと晴れていく。

 そして、彼らの眼前に広がった光景に、ユイを除く全員が言葉を失った。

 そこは、楽園だった。

 荒廃し、色彩を失ったはずのこの異世界ではあり得ない、鮮烈な色彩が咲き乱れる場所。

 地面はビロードのように柔らかな苔で覆われ、見たこともない極彩色の花々が、芳しい香りを放っている。

 見た目はスミレに似ているが百合ほどもある巨大な花、蓮のように水面に浮かびながら薔薇の形をした花弁を持つもの。

 その一つ一つが、非現実的なまでの光沢を放っていた。

 緑豊かな木々の葉は陽光を浴びてエメラルドのように煌めき、澄み切った空には、孔雀の羽を持つ蝶や、宝石のような鱗を持つ鳥たちが楽しげに舞っていた。


「……なんだ、ここは。呪いの影響が及んでいない聖域でもあるのか?」


 完璧な色覚を持つレンでさえ、その色彩の洪水に圧倒されていた。

 彼の鼻は、一つ一つの花や木々から放たれる、生命力に満ちた甘やかな「匂い」を捉え、長旅で張り詰めていた警戒心と同時に、抗いがたい心地よさを感じていた。

 青系の色しか見えないミコも、普段は見慣れない鮮やかなセルリアンブルーの空と、目に染みるようなビリジアンの葉のコントラストに目を奪われていた。

 その場所から流れてくる穏やかな記憶の「響き」に、強張っていた表情が自然と緩んでいくのが分かった。


「……きれい」


 無意識に漏れたその呟きは、彼女がこの世界に来てから初めて見せる、純粋な感嘆だった。

 常に「赤」を痛みとして感じてきたカイでさえ、この地の鮮烈な赤には、わずかな動揺こそ見せるものの、これまでの身を焼くような激痛とは異なる、どこか静かで、心を誘うような不思議な「響き」を感じ取り、戸惑いの表情を浮かべていた。

 彼の赤い瞳が、目の前の光景を理解しようと、細かく揺れている。


「……ここの赤は、痛くない……のか……?」


 仲間たちが、そのあり得ない光景に魅了されていく。

 だが、ユイだけが、その場に満ちる異様な感覚に、背筋を氷でなぞられたかのような悪寒を感じていた。

 視覚的に「静けさ」しか持たない彼女の耳には、この鮮やかすぎる色彩が、耐え難いほどの不協和音の嵐となって轟いていたのだ。

 生命の躍動を思わせるはずの花々の「音」は、どこか調律の狂ったオルゴールのように、ただ同じメロディを短く繰り返すだけで、そこには成長も変化も感じられない、機械的な響きしかなかった。

 木々が奏でるはずの「旋律」にも、生命が持つべき複雑な和音はなく、単一の音がドローン(持続音)のように鳴り響くだけで、生命の深みが感じられない。

 鳥たちのさえずりも、よく聴けば全く同じ高さ、同じ長さのフレーズを、ただ何度も何度も再生しているだけの、空虚な反響音にしか聴こえなかった。

 そして、花の「香り」。

 それは、あまりに甘すぎて、まるで腐敗の始まりを隠しているかのようだった。

 感情を誘発するはずの「色」からは、底知れない空虚さと、氷のように冷たい欺瞞の気配が滲み出ている。

 特に、彼女の感覚に強く訴えかけてくる「赤」。

 それは、生命の衝動や危険を意味するはずの、あの激しい音ではない。

 ここでは、耳障りなほどに軽く、甲高い「偽りの囁き」として、ユイの神経を絶えず逆撫でしていた。


『おいで』


『ここは安らぎの場所よ』


『もう戦わなくていい。苦しまなくていい』


「……この場所は、偽物だ……」


 ユイが絞り出した声は、目の前の光景に魅了されている仲間たちの耳には、まだ届かない。

 彼女の特殊な知覚だけが、この牧歌的な楽園が【色の呪い】によって作り出された、彼らをおびき寄せ、その安堵した感情を根こそぎ貪り喰らうための、巧妙で、悪質な「罠」であることを見抜いていた。

 美しさに隠された、深淵のような危険。

 その甘美な誘惑が、ユイたちの感覚を通して、一行に静かに、そして確実に迫っていた。

 彼らは今、物理的な脅威よりも遥かに危険な、精神を内側から溶かす罠と対峙しようとしていたのだ。


(第二十四章 了)

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