第19話 ロマン生物
タナポンさんがマナーの悪い釣り人と口論している声が、湖面に反射して響いていた。
俺は少し離れた場所で、ハナと並んで座っていた。
ハナはブラックバスの独特な匂いが気に入らなかったのか、まったく食べてくれない。
ハナが俺の足を叩きながら、飯くれ飯くれと駄々をこねている。
仕方なく、マネージャーに頼んで車でキャットフードを買いに行ってもらっている。
「ハナ、ごめんな。餌はすぐ届くからな」
「ニャッ!」
ハナが食べなかったブラックバスはブツ切りにして餌にした。
外来種とはいえ、人間のエゴで異国に連れてこられただけの、罪のない命だ。せめて有効活用してあげたい。
ナマズか何かが釣れるだろ、多分。
タナポンさんはまだ口論を続けている。二十分は経っているだろうか。お互いに手は出していないようだ。
最近の不良は大人しいので、少し安心して見ていられる。
そんなことを考えていた時、釣り竿に衝撃があった。
「ん、なんだこれ」
「ニャ?」
ハナが不思議そうに俺を見上げる。
まるで岩にでも引っかかったかのように、リールがまったく引けなくなった。
ドラグが糸を出すジジジ……という音だけが響く。
根掛かりとも違う。仕掛けが異常な力で水中へと引きずり込まれている。
これは――大物だ。今までに感じたことのない強さだ。
力を込めて、思い切り竿を立てた。
――次の瞬間、沖合の水面が大きく盛り上がる。
帆のような巨大な背びれが、水を裂いて現れた。それは信じられない速度でこちらに向かってくる。
やがて水面から姿を現したのは、巨大な生物だった。
大きすぎて全貌はつかめないが、軽く十メートルはある。
なぜここにいるのかはわからない。
けれど、子供の頃に図鑑で見た姿を、俺は知っていた。
あの特徴的な帆――白亜紀の怪物、スピノサウルスだ。
水面の下から、錆びた鉄のような赤茶色の胴体がゆっくりと浮かび上がる。
その背に伸びる帆は、血管のような筋が透け、朝日に照らされて赤黒く光っていた。
鱗の一枚一枚が刃物のように光を返し、その隙間から水が細い糸になって落ちていく。
魚ではない、爬虫類でもない――『生き物』という言葉では足りない。
俺の目がそれを見ているのに、頭が理解を拒んでいた。
浅瀬に入ったのか、怪物はゆっくりと歩き始めた。
一歩進むたび、地面が震える。
最悪なことに、俺の釣竿から出た糸は、その口元に絡まっていた。
咄嗟に竿を放した。だが、やつの目はまっすぐ俺を見据えている。
やばいものを釣ってしまった――。
スピノサウルスが口を開き、咆哮した。
「グゥォォォォ……ギュラァァァァァ!!!」
泡混じりの咆哮。その迫力に、俺の体は凍りついた。
怒りと、圧倒的な捕食者の威圧が伝わってくる。
動けない――。喰われる……!
その硬直を破ったのは、小さな影だった。
ハナだ。背中の毛を逆立て、俺の前に飛び出した。
「キシャー!」
小さな体で、十倍どころか百倍もある怪物に立ち向かう。
スピノサウルスの目線が一瞬逸れた。その隙に、足が動いた。
「ハナ、逃げるぞ!」
ハナを抱え、無我夢中で走った。
足がもつれ、息が荒くなる。
国道へ続く長い階段を駆け上がり、ようやく振り向いた。
湖面は静まり返っている。
あの巨大な姿は見えなかった。だが、その静けさが逆に怖かった。
湖畔から、誰かの叫び声が響いた。
「こっちに来るな! 来るなって!」
タナポンさんと口論していたヤンキーの声だ。続けて、甲高い悲鳴。
しまった――タナポンさんを置いてきてしまった。
助けに行かなきゃ。
階段を駆け降りようとした瞬間、ハナが足元に飛びつき、俺を止めた。
その瞳が言っていた。行くな、と。
息を呑んだ。そうだ、俺が行っても何もできない。
ポケットからスマホを取り出し、通報する。
「警察です。事件ですか、事故ですか?」
「じ、事件です! 琵琶湖で釣りをしてたんですけど……でかい生き物が……!」
「落ち着いてください。位置はわかりますか?」
息が荒く、うまく言葉が出ない。
電話越しに聞こえるオペレーターの声だけが、現実をつなぎ止めていた。
通話中、マネージャーが戻ってきた。
コンビニ袋を提げたまま立ち止まり、怪訝そうに俺を見た。
「ミナトくん、こんなところでどうした?」
「下に……いるんです。とんでもないのが……」
言葉の途中で、サイレンの音が近づく。
パトカーが止まり、二人の警官が降りてきた。
「下に巨大な生物がいます! 降りたら危険です!」
必死に叫んだが、彼らは半信半疑の顔で頷くだけだった。
通報を受けてとりあえず来た――そんな空気が漂っている。
「はいはい、念のため確認してみるからね」
一人の警官が懐中電灯を手に、階段を下りていく。
止めようとした俺の腕を、もう一人が掴んだ。
彼は階段の上から、その背中をじっと見送っている。
――バンッ! バンッ! バンッ!
乾いた銃声。少しして、悲鳴が夜気を裂いた。
階段の上に残った警官が無線機を握りしめ、叫ぶ。
「彦根09から本部、発砲音を確認! 応援を要請します!」
その声は震えていた。
彼は拳銃を抜き、今にも階段を駆け下りそうな勢いだった。
「相手は……陸上では足が遅いです! 見つかったら全力で逃げてください!」
そこでようやく、警官が俺の存在に気づいた。
俺は伝える――下には五人の市民がいること、怪物の大きさは十五メートルほどであること、そして拳銃では太刀打ちできないということを。
警官は一瞬沈黙し、降りるのをやめた。賢明な判断だと思った。
無線で何かを報告している。
タナポンさん、そして降りていった警官は無事だろうか。
あの怪物に、人間が敵うとは思えない。
釣り場の岩場へは、あの階段を通るしか行けない。
登ってこないということは――もう、手遅れかもしれない。
叫び声がなくなった湖畔は、まるで時間そのものが止まったように静まり返っていた。
階段の上にいる俺の耳には、風の切れる音と、かすかな波の音だけが届く。
どこかで石が転がるような小さな音がして、それもすぐに消えた。
その沈黙を破ったのは、カサリ、カサリと繰り返す小さな音。
振り向くと、ハナがネコ缶の入ったコンビニ袋を何度も前足で叩いていた。
「こんな時でも、お前は落ち着いてるな……」
「ニャッ!」
俺の予感では、しばらくハナに餌をあげられそうにない。
呆れ顔の警官とマネージャーの前で、ハナに餌をあげる。
仕方ないだろう。目に入れても痛くないほどの愛猫が、腹を空かせているんだから。
しばらくして、応援のパトカーが五台ほど到着した。
国道は警光灯の赤に染まっている。
一人の警官が階段を降りていく。重武装だが、装備は拳銃のみ。大丈夫なのか……。
やがてその警官が戻り、同僚を手招きしてさらに数人が下りていった。
続々とパトカーと救急車が集まる。
階段を下る警官の数が増えていくということは、もう下は安全になったのだろう。
釣竿を回収しようと、階段脇の警官に「降りていいか?」と尋ねたが、許可は出なかった。
今日のコラボ撮影は、もう無理だな。
車に戻ろうとしたところで、笑顔の警官が話しかけてきた。
「署まで同行して、お話を聞かせてもらえますか?」
ですよねー。
だが、対応は意外と穏やかだった。
俺が未成年というのもあるし、どう考えてもこの事件は人間の仕業ではない。
少し待ってもらって、漁協の顧問弁護士に電話をかける。
「あー、事件に巻き込まれて彦根警察署で取り調べを受けることになりました。漁協長に伝えといてください」
電話の向こうで驚きの声が上がり、すぐに動いてくれるという心強い返答をもらった。
ハナをマネージャーに預け、俺はパトカーに乗り込む。
後部座席の窓から、ブルーシートで覆われた担架が救急車へと運ばれていくのが見えた。
一つ、二つ……そこまで数えたところで、パトカーは署へ向けて走り出した。
今日は、沼津に帰れるんだろうか。
――
◾️ミナトくんの変な生き物紹介コーナー◾️
スピノサウルス
スピノサウルスは白亜紀末を代表する肉食(魚食)恐竜で、水辺近くに暮らす半水生の生き物だったと考えられている。
泳ぐのは速かったが、地上では鈍足だった。
日本では福井県や和歌山県で、スピノサウルスの仲間の化石が見つかっている。
ミナトくんの「ブラックバスを撲滅したい」という願いから召喚された。
歯茎に針が食い込み、それを無理やり引っ張られたせいで、猛烈に怒っている。
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